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国際人権ひろば No.132(2017年03月発行号)

アジア・太平洋の窓

インドに暮らす亡命チベット人 ~ 難民1世の帰還への想い ~

榎木 美樹(えのき みき)
名古屋市立大学准教授

 インド留学のときに同級生だったチベット人と結婚して14年が経つ。この年月の間に何とか「嫁」と認められるようになったが、当初は、壮絶な嫁・姑・大姑問題があった。だが今は、「嫁ぐ」という経験を共有した人生の大先輩として尊敬している。

 ある日突然、幸せだった・平和だった生活が奪われる―昨日と同じ日々が明日も続くと信じていたのに、昨日までの日常が強制終了され、怒涛のような困難が次々と現れる。強制的移住も伴う。インドで暮らす亡命チベット人は、1959年以来、この境遇の中にいる。難民1世として人生の大部分をインドで過ごしている私の配偶者の祖母(アイ:チベットのアムド地方の方言で「おばあさん」の意。以下「アイ」と呼称)の人生の一端を記したい。

 難民としてのチベット人

 2017年1月現在、世界の亡命チベット人は12万人、うち10万人がインドに暮らす。インドは現在も難民条約および同議定書を批准していない。難民の地位を決定し保護する法的な枠組みがない以上、国境を越えてきた人々に対する処遇は政府の自由裁量に委ねられることになる。チベット難民に対する処遇はインドの外交政策に従ってダブル・スタンダード方式1が採られてきた。これにより、越境したチベット人への処遇としては、難民という名目で受け入れるが、受け入れ後インドに滞在する資格は外国人として対処されている。

 在留資格が外国人である亡命チベット人は、外国人登録をし、インド政府が発行する諸々の証明を所持している。書類によって異なるが、その国籍(nationality)や本拠地(place of origin)、滞在理由(purpose of visiting India)を記載する欄には「チベット(人)」(Tibet/Tibetan)、「難民」(refugee)と記載されている。

 亡命の本質は、本来の居住地ではない場所に迫害のため不本意ながら滞在しているということで、帰るべき郷土が常に想定されている。チベット難民は本来の常居所におけるすべてを放棄して命を賭してヒマラヤを越え、気候も習慣もすべてが違う異国の地でゼロから出発しなくてはならない。亡命先である程度生活を確立させたとしても、時が至ればまたそれを放棄して数十年離れていた帰るべき郷土へ戻り、再び生活を立ち上げる。帰還を願うすべての亡命チベット人にはこの筋書きが宿命づけられている。一見、非合理的なこの行動は、帰るべき郷土への愛着のためには乗り越えなければならない試練でありこそすれ、無駄なことではない。

 難民1世の体験

 

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夫の祖母のアイ

 アイは自称80歳。遊牧民だった。結婚して数年でインドへ亡命した。20歳くらいの時だという。チベットにいる間に男の子と女の子を出産した。夫は決して手をあげない優しい人だったという。結婚後は、夫とその家族と行動を共にしたため、以来生家の家族とは会っていない。

 夫と住んでいた居住地を離れたのは、実際に中国軍が攻めてきたからだ。アイの話では、家畜も一緒に夫の一族200名くらいで応戦しながら抵抗した。中国軍の勢いに押されて移動せざるを得ず、ダライ・ラマ法王のいる場所が安全だからと西を目指した。地図もなく案内人もいなかったので、とにかく西に逃げて、気がつけばインド北部のラダックに着いていた。居住地を離れてから2年が経っていた。途中の中国軍との戦闘とヒマラヤ越えで、人員はどんどん減り食料も家畜も食べ尽くしたという。最後のヤク2を殺して食べるとき、ヤクは涙を流しながら食べてくれと話したそうだ。

 アイはこの移動の最中にもう一人を出産していた。ヒマラヤ越えの時、2人の息子は寒さと飢えで死んだ。背中に背負っている息子が冷たくなっていった様子を今も細かく覚えている。遺体は雪の中に埋めた。ヒマラヤ山中において来るとき、息子の着ていた肌着の一部を破き、自分の懐に入れた。

 インドのラダックに着いたとき、生き残っていたのは、自分と夫、娘1人、夫の兄(僧侶)と近い親戚3人の7人だった。他の人や家畜は途中で死んだか、戦闘の混乱で散り散りになり行方は分からない。ヒマラヤ越えを生き抜いた娘が私の夫の母だ。このとき7歳だった(チベット人はチベット式の数え年を使うので、満5歳の可能性もある)。ラダックではチベット人用の難民キャンプに収容された。

 インドでの生活は困難の連続だった。食べ物の違いは予想以上だった。ケロシン燃料を食用油だと思い飲んでいたら、体調が悪くなったが、インドの気候風土が合わないだけだろうと食用に使い続け、インド軍人に指摘されるまで気づかなかったなど、逸話は豊富にある。3000mでも標高が低くて体調を崩したり、木々があるだけで閉所恐怖症になったりした。

 そのような中、難民キャンプに収容されたチベット人たちは、ときのネルー首相の難民受け入れ対策として、インド人労働者では難航していたラダックの道路建設事業に従事した。高山病になることなく肉体労働をするチベット難民は重宝がられたが、岩盤崩れなどで多くが死んだ。

 60年代にラダックの道路建設が一段落すると、本格的な難民受け入れ地を探すこととなり、ネルー首相は各州政府に呼びかけ、いくつかの州はそれに応えた。しかし、インド人も入らない森林・ジャングル地帯を開墾してそこに居住することが定住地提供の条件であったため、チベット人たちはさらに平地に降りる必要に迫られ、インドの暑さと闘わなければならなかった。平地での生活は息をするのも苦しかったという。チベットでは存在しなかった風土病にもかかり、貧困・病気・生活習慣や文化の大きな相違に加えて過酷な肉体労働と亡命時のトラウマにより、精神を病んだり、アルコールや薬物依存になるチベット人が多数出たのもこの時期だった。アイの夫も、アルコール依存になり40歳で死去した。以来、アイが一家の大黒柱として、働きづくめに働いてきた。

 ヒマラヤ越えを生き抜いた当時7歳の娘が長じて生んだのが私の夫である。アイはヒマラヤで亡くした息子の一人が返ってきたと思い、大切に育てた。その孫が結婚したのが、日本人の私だ。眼の中に入れても全く痛くない孫が選んだ妻がチベット人ではないということで、われわれの結婚は当初から波乱含みだったが、その話はまた別の機会にしたい。私の息子が生まれてしばらくするまで、アイは亡くした息子2人の端切れをずーっと身に着けていた。今、その端切れは家の祭壇の中にある。

 アイは、死ぬまでに生まれ故郷に帰りたい、お父さんお母さんに会いたいと言う。夫とチベットを後にして以来、父母とは音信不通で、もうこの世にはいないだろうことはわかっているものの、行けば会えるかもしれないという期待が心の何処かにあるようだ。もう一度、一族がしあわせに暮らしたアムドの地に帰りたいと言う。だがその地は、もうチベット自治区ですらなく、青海省の一部になっている。

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家族写真:左から夫の母、アイ、夫の妹、夫、
息子、筆者、夫の弟(インド北部のデラドゥン市にて)

 チベット問題の展望

  2008年までは、年間約3,000人の新規亡命者がチベットからインドへ到着していたが、2008年以降は激減し、2015年度は87人となった。2008年は、ラサ騒乱3が発生した年である。ダライ・ラマ14世は、1988年以来、チベットの独立ではなく自治区内での完全自治を要求している。中国政府は現在も、ダライ・ラマ14世を「分離独立分子」と批判している。ダライ・ラマのチベット帰還に向けた話し合いはなかなか進展しない。ダライ・ラマ14世は81歳となり、後継者の問題も取り沙汰されている。14世亡き後の亡命チベット社会の存続も懸念される。

 難民2世である私の夫がチベットへ帰るか否かはわからないが、アイに関しては、生きているうちにダライ・ラマ14世とともにチベットに帰ることを切実に望んでいる。

 


注1:インド政府は「友好による中国封じ込め政策」に基づいて、政治的にはチベットを否定することで中国との友好関係を保ち、人道主義の名目でチベット難民を援助することで、対中国防衛に備えてチベット亡命政府と亡命してきた人々を切り札に用いた。人道的配慮と対中国政策の国防上の攻撃性の観点からチベット難民を受け入れはするが、対中国政策の有効性の観点からチベット独立を主張するような政治的活動は認めないという方針。

注2:チベットの遊牧民が飼育している毛の長い、ウシ目ウシ科ウシ属に分類される偶蹄類動物。

注3:2008年3月10日以降、中国チベット自治区ラサ市を発端にチベット独立を求めるデモをきっかけとして発生した一連の暴動。


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