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国際人権ひろば No.68(2006年07月発行号)

特集 フォトジャーナリストがみた現実世界 Part2

チベット・カイラス巡礼~祈り続ける人々

兵頭 千夏 (ひょうどう ちなつ) フォトジャーナリスト

  チベットにも干支(えと)があり、日本と同じく2002年は午(うま)年だった。チベット人にとって午年は12年に1度の巡礼年で、たくさんの人が有名なゴンパ(寺)や僧院に詣で、祈りを捧げるという。仏教徒の彼らにとって2002年は特別な1年。というのもこの1年の間に巡礼すると、普段の何倍にもなって徳が積めるからだとか。なかでもカイラス山巡礼は、何にもかえがたい幸せなことと言われている。
  仏教徒の私は以前からカイラス山の巡礼に行きたいと思い続けていた。しかし容易でないことを知ってもいたのでなかなか最初の一歩が踏み出せずにいた。一番の問題は時間がかかること。日本で手配して行く人もいるのだろうがそれは高額な費用を払わなければならない。そういったツアーに参加できる身分でもないので自分で計画をたてカイラス山巡礼を目指そうとなると余裕を持って最低1ヶ月はかかる。まとまった休暇をとるのが難しかったこともあり、私は二の足を踏んでいた。けれど、チベットに行った事のある友人の一言で今行かなくてはならないと決心がついた。
  「早くチベットにいかないと、中国の一地方都市みたいになっちゃうよ」
  それは大変なことだ。私はその一言で長年の夢を果たすべく、チベットに向かうことができたのだった。

■ 変貌するラサの町


  チベットは今や決して秘境や禁断の地などではない。四川省の成都からチベットの都ラサ間を飛行機が毎日就航している。山脈群に囲まれ、平均高度4,000mを越える大高原地帯へと、わずか2時間で着いてしまう。
  そんなラサの町を歩いて悲しくなった。街中には中国語の看板があふれ、伝統的なチベット様式の建物を壊し、新たにビルを建てていたからだ。それも四角くて背の高いだけの味気ないビルを建てるのだ。
  偶然道に迷って辿り着いた場所が、崩れた木造の建物だった。近づいてみるとそこはお寺であった。よく見ると壁画が描かれてあった。その壁画だけが当時の面影をかろうじて残していた。チベットでは1966年に文化大革命が始まり伝統的なものは悪とされ、9割の寺院が破壊されたという。
  ダライ・ラマ14世が暮らしていたポタラ宮殿はすっかり博物館と化していた。1959年ダライ・ラマ14世は中国の侵攻を受けインドに亡命したのだ。そんな主なき宮殿に向かいチベット人は祈りを捧げていた。
  ラサの町は中国語しかできない漢民族がすっかり幅を利かせていた。中国政府は漢民族の入植を奨励しているのだ。私は自分が日本人であることを必要以上にアピールしていた。中国人ではないと知ると明らかにチベットの人の表情が柔らかくなるのがおかしかった。

■ カイラス巡礼


  2002年6月、私は心配していた高山病にかかることもなく、ラサからカイラス巡礼への外国人だけの16日間ツアーに参加することができた。この年が巡礼年だったことから人集めに苦労することがなかったのは幸いだった。
  「カイラス巡礼」の目的は、現世で犯した罪を清め、来世も再び人間として生まれ変わって来ることを願い、身に起こる不幸はカルマ(運命)と受け入れ、それが再び起こらないようにと祈るためだという。
  6,714mの独立峰カイラス山頂を極めた者はいない。いや、これからもいくら著名な登山家であっても目指すことは許されない。カイラス山は釈迦牟尼の化身であり、まわりの山々は諸仏にたとえられている。そこを登るなんてもってのほかなのだ。巡礼は山の周りにある約52キロの巡礼路を右回りで一周することになる。天然の曼陀羅巡りというわけだ。
  車の通れない場所が多いので、起点となる町タルチェンからは自分の足で前進するしかない。足の不自由な人たちはチベット高原辺りにしか生息しない「ヤク」という毛の長い牛に乗っていた。
  私が4日かけ一周したところをチベット人は1日で一周してしまう。仏法への帰依を示す、五体投地をしながら周る人達が想像以上に多いのも巡礼年だからのようだ。五体投地とは身を投げ出し、両肘、両膝、額を地につけて祈ること。ちなみに五体投地で一周するには約2週間かかるというのに、それを108周するまで故郷に帰らない人もいるというから驚いた。
  巡礼路の難関、ドルマ・ラ峠手前の聖所、シワ・ツァルには無数の衣服類が散在している。これらは巡礼者が置いていくのだ。こうすることでカイラス巡礼の証としているという。「私は生きてここに来た」と主張する異様な光景だ。そこから最高地点のドルマ・ラ峠(海抜5,636メートル)へは1時間以上も急な登りを歩まなければならない。高地順応していてもこの峠まではかなりきついと聞かされていたので「自分のペースを守ろう!」そうつぶやきながらスローモーションのように一歩づつ足を動かしていた。
  「ドルマ・ラ峠だよ」。ゆっくりしか前に進めない私に、仲良くなったチベット人が教えてくれた。「本当に?」とカタコトのチベット語で確かめると「今回が13周目、嘘じゃないよ」。彼はなまりのある中国語で微笑みながら答えた。40才を越えるのに彼は息がきれることもなく軽やかな足取りだ。けれど私の歩みは止まってしまう。うれし涙がとめどなくこぼれ、息がしづらいのだ。なぜならここで懺悔することが仏教徒である私の念願だったからだ。
  ドルマ・ラ峠で許しを乞い懺悔すると、それまでの罪をきれいに洗い流してくれると信じられている。みなタルチョと言われる五色の祈祷旗を結び、祈りを捧げていた。私も用意していた祈祷旗をくくりつける。チベット人を真似て、ここに来た証として身につけていたお守りを置き、かわりにそこにあった石をいくつか手に取りポケットの中へ入れた。そして私は長い間懺悔し、世界の平和と調和、みなが幸せであるようにと祈りを捧げた。おかしなもので懺悔は個人的な内容なのだが、念願の地に着いたという達成感かカイラス山がそうさせたのか解らないが、普段思いもしないことを祈っていた。

■ 祈り続ける人々の今後は...


  僧院に泊まりながら52キロを歩き終え、再びタルチェンに戻って来た時、なんとも飽きさせない巡礼路であったとつくづく感心していた。おだやかな道もあれば、険しい登り坂があり、寒々しく岩がゴロゴロしていたかと思えば、小川が流れ、羊やヤギが緑の草をはんでいる。そして聖なるカイラス山がどっしりと見守っていてくれていたことに気づいた。天然の曼陀羅巡りとはよくいったものだ。
  一回転するだけでお経を詠んだことになるというおもちゃのような「マニ車」をクルクル回し、空いた片方の手には数珠を持ち指先で常に珠をはじく。胸にはお守りと一緒に活仏の写真、そして携帯仏壇を持ち歩き、聖なる山カイラス巡礼を人生の喜びとする彼ら。彼らは祈るために生きている、そういっても過言ではないように思えた。みんなの清々しい表情を忘れることができない。何日もお風呂に入らず、着古した服をまとっているのに、本当に美しく幸せそうだった。
  2006年7月、青蔵鉄道が開通した。首都の北京とラサを約48時間で結ぶという。時間はかかるが飛行機代に比べたら格段に安くラサに行けるのだ。これからチベットは加速して中国化してゆくのだろう。けれど私は思う。醜い欲の侵略がチベットの街並や習慣、暮らしぶりを変えてゆくとしても、彼らの心まで支配することはできないだろう、と。彼らに信仰がある限り。

(※編集注:筆者による写真は、プリント版の本誌にのみ掲載しています。)