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国際人権ひろば No.60(2005年03月発行号)

特集:スマトラ沖地震・津波の被害と復興の課題 Part2

スマトラ沖大震災・津波後のスリランカの状況

田村 智子 (たむら ともこ) 農村・社会開発コンサルタント/スリランカ在住

■ 国民全体が喪に服した


  2004年12月26日のスマトラ沖地震によるツナミがスリランカの沿岸地方に与えた影響は想像を絶するものだった。3万人余りの死者が確認され、2005年3月2日現在で4,200余名がまだ行方不明者とされている。約8万世帯が家を失い、20万世帯が被害を受けた。これはスリランカがかつて経験したことのない規模の惨事である。ツナミの後数日間は連日、死体が行列となって安置されている病院や集会所、家屋の全壊した海岸や町がテレビで報道され、国民全体が、両親や子ども、親類、友人を失った多くの人たちの気持ちを思って喪に服した状態であった。いつも大晦日には爆竹がにぎやかに鳴るが、今回はひとつたりとも聞こえず、家々の門には弔意を表する白旗が掲げられていた。

■ 地震のないスリランカでは 「ツナミって何」?


  夫の出身地であるモラトワ市でも、海岸沿いの零細漁民、労働者の多くが被害にあった。以前モラトワ市からパーナドゥラ市に行く途中、大通りを車で走ると海側に見えた多くの家屋が全て流されたのを見たときは大変ショックを受けた。スリランカは地震がほとんどないため、ツナミへの警報体制もまったくなく、予報や避難警告が出ないまま、突然巨大な波が襲ったことがこんなにも沢山の命を一瞬にして奪ってしまった。人々はツナミの知識もなかったために音に驚いて見に行ったり、もう一度来るとは思わず打ち上げられた魚を採りに行ったりした人々なども犠牲になった。また逃げきる力のない子どもや女性、お年寄りが多く犠牲になったことは大変悲しいことだ。
  ツナミが起こったのはクリスマス休暇中、それも日曜日だったため、海外から送られた多くの警報は一つとしてスリランカに届かなかった。在コロンボ(スリランカ)の各国大使館にも何度も警報が発せられたが、あいにくすべて閉館していた。そういうわけで、地震が起こってからスリランカにツナミが襲うまで約1時間半かかっているにもかかわらず、情報が全くないまま被害を受けることになってしまった。
  またスリランカの中でも東部海岸にツナミが到達してから南部海岸に到達するまで約20分間あったにもかかわらず、電話線の破壊などのため、これもまた情報は伝わらなかった。高度情報化社会にあっても緊急の場合の情報伝達網にはかなり落とし穴があるようだ。ただし、海岸近くのジャングルの動物たちの死体は一体として発見されなかった。動物たちは五感を働かして逃げ切ったのだから驚きである。

■ 次の日から救援活動を始めた


  幸い我々の家族・親族は無事だったが、以前住んでいた家の隣近所や魚を買いに行っていた地域の人々が被災したので、我々夫婦はジッとしてはおられず、ツナミの翌日から、地元の有志を集めて救援活動を始めた。家計からの出費で450人分の炊き出しをしたほかに、コロンボ在住の日本人家庭から迅速に寄付していただいた衣類・食料品・衛生用品などを被災者に届けた。届けたのは、モラトゥワ・パーナドゥラ・カルタラ地方で避難所となっている教会・寺院・学校である。今回、スリランカではツナミの翌日から、我々のような普通のスリランカ人家庭は自家用車に家で作ったお弁当を積んで被災地に向かい、事業家はスーパーで物資を買い込んでトラックで被災地に向かい、といった風に、政府が動き出す前にすぐに救援に乗り出した。被害は海岸地方のみだったため、ほとんどの被災地には内陸の交通網で到達することが可能であったのが幸いしたようだ。普段のんびりして見えるスリランカ人だがその行動力とボランティア精神に私は頭が下がる思いがした。

■ 日本からも沢山の支援


  また、スリランカ緊急支援への協力を日本の友人に呼びかけたところ、多くの方々から即時の申し出があった。「政府や大きな組織などでは義捐金がどう使われたか判らなくなりそう」「小さなグループのほうが支援が確実に届くと思って」、などのメッセージとともに託された物品や義捐金を受け取り、これをしっかり被災者に届けよう!と我々は決意を新たにした。また、被災した人々の事を考えると胸が痛くなるというメッセージを頂いたり、忙しいだろうから返事は結構、などと気を使ってくださったりと、暖かいお言葉に我々はとても勇気付けられた。

■ 避難所ではイライラと不安が日に日に増している


  津波発生から1ヶ月を過ぎた頃、交通の分断されている一部の地方を除く各地の避難所には食料や衣料がほぼ行き届いていた。一方、我々が避難所に通っていて一番問題だと思ったのは、被災者の心理的な不安定さ、いらいら、絶望感が日に日に増していたことだった。喧嘩したり、お酒が入って暴れたり、という姿も何度か目にした。海岸線から100m以内は再定住禁止という情報もあり、被災者は、「いったい帰るところがあるのだろうか、いつ帰れるのだろうか、どうやって生活していけばいいのだろうか」、といった不安でいっぱいのようだ。それに加えて、家族や親類を失ったことによるストレスの大きさは計り知れない。

■ 子どもたちが復学できるように支援


  このような不安感をどうしたら解消できるのかと考えながら被災者と話したところ、やはり再定住の見通しは立たない中でも、少しでも普通どおりの生活ができる、たとえば子どもが学校に通ったり、いつも行く教会に礼拝にいったり、ということが安心感につながるということが分かった。しかし学校に行くにも、制服もなければ靴もノートもないのでどうしていいか分からない。スリランカの新学年は1月なので、それにあわせて学用品などを少しずつ買い揃えていたにもかかわらず流されてしまったからである。
  我々は、子どもたちが学校へ行けるように支援することが、被災者の不安を少しでも解消し、また子どもたちがドロップアウトせずに済むために必要だと判断した。そこでモラトゥワ、パーナドゥラ地方の避難所にいる約200名の子どもたちに制服と文房具の「復学セット」の支給をすることにした。布を支給しても、仕立て屋に持っていく精神力が被災者にあるかどうか不明だったし、父親が布を売ってお酒を買ってしまっては元も子もないので、制服を仕立てて支給できるよう、一人ひとり採寸した。少しでも被災者の不安が解消できるようにと祈りながらの採寸だった。

■ 縫製を手伝ってくれたのも被災者だった


  制服の縫製には3人のテーラーの男性が協力してくれた。このうち一人は被災者だった。家こそ流されなかったが、作業場のミシンや布などはすべて流され困っていたところだったので、制服の縫製は良い臨時収入になったようである。
  裁縫が終わり、文房具を購入し、1月末から2月初めにかけて、予定通り約200名の小中学生に制服と文房具のセットを支給することができた。制服や文房具をもらった子どもたちのうれしそうな様子!!特に新一年生は真っ白な制服を初めて着るのにドキドキしていたようだ。そして、子どもたちは通学をはじめた。

■ まだ復興計画が立っていない


  各地ではまだ避難所生活が続いている。日々の生活に必要な最低限の物資は支給されており、子どもたちは学校に通うようになった。しかし復興の方針や計画がまだはっきり示されていないため、被災者の不安は解消されていない。被災地を訪れると、「津波から約1ヶ月半も経っているのにいったいスリランカ政府は何をしているのだ?早く何とかしないと!」と言いたくなる事もあるが、政府にもこのような大災害時の復興経験はないので仕方がないのかもしれない。
  スリランカでは、2002年まで続いた約20年間に及ぶ民族紛争の経験から、難民キャンプでの生活がいかに人々の自立心をなくさせるか、ということが指摘されている。働かなくても衣食住が保障される難民キャンプに長くいればいるほど、再定住の時、それほど条件の良くない新天地に赴くリスクを負うことに消極的になる人が多い。熱帯のスリランカでは、ヤシの葉の屋根で板張りの家でもとりあえず生活はできる。とにかく一日でも早く具体的な再定住計画が提示され、仮設住居が建てられ、経済活動に必要な漁船や網が入手できれば家族での自立した生活が始められるのに、と思う。
  我々は個人レベルで活動しているため、大掛かりなことはできないが、今後も被災者のニーズを見極めて支援を続けていきたいと考えている。