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国際人権ひろば No.59(2005年01月発行号)

特集:人権教育の深まりと進展を求めて Part2

「国連・持続可能な開発のための教育の10年」の展開に向けて"知る"ことから"自分たちの力で変える"ことへ

森 良 (もり りょう) NPO法人エコ・コミュニケーションセンター(ECOM) 代表

■ つながりに気づきつながりを築く


 「環境問題に関心がある」という人はたくさんいる。しかし問題の解決のために行動している人は少ない。同じように「地域の問題に直接かかわりたい」と思っている人もたくさんいるが、実際にかかわっている人は少ない。その原因は「切れていること」「バラバラになっていること」にある。
 その中で多くの人たちが、自己肯定感情を持てずに、無力感を感じている。「どうせ私なんか...」「私がやったって世の中は変わらない」と。
 ならば、その逆をやればいい。全てのものはつながっていること、あなたと私とはつながっていること、問題は相互に関連していること、これらの<つながり>を深く追求し、<つながり>に気づくとともに、その<つながり>をより良いものに変えていくために必要な力を得ることだ。「持続可能な開発のための教育」はとても幅広いものだが、究極の目的はそこにある。以下に、その理念(基本理念=コンセプト)、方法、具体的な展開について述べてみよう。

■ 理念:いのち・共に生きる・市民として


 いのち
  いまもっとも危機にさらされているもの、それは<いのち>だろう。この地球上で毎日多くのいのちが奪われていっている。戦争やお金や土地をめぐる争い、環境破壊や人権抑圧などによって。
  地球の生態系といういのちのつながりが壊され汚されることによって、人間のいのちも危うくなってきている。
  <いのち>の不思議さ、素晴らしさ、大切さを感じ学ぶことこそこの学びの根本をなすものだろう。

 共に生きる
  バラバラにされ力を奪われている人々は、お互いに出会い、対話しあい、相互に力をつけあわねばならない。
女と男、障がい者と健常者、差別され抑圧されている人々と抑圧している人々、パレスチナとイスラエルの民衆、南北朝鮮の民衆、在日外国人と日本人、人間と自然...。
  <共に生きる>は包括的で深い概念である。それはまた、気づき、学びから個人の成長、そして社会の参画へと発展していくプロセスをも表している。

 市民として
  <いのち>というベースに踏まえ、<共に生きる>というスタンスとプロセスをつくって実践していくために必要なものが<市民として>の態度や技能(スキル)である。
「地球市民」の定義を通してその内容を述べてみよう。

 地球市民とは
1) 多様な要素が交わる場所に生きている(場所)
2) 子や孫のことを考えている(時間)
3) 行動的である(変革:学習⇔行動)
4) 地球と深く結びついた人間性をもつ。(内面:内の世界⇔外の世界)

1) 多様な要素が交わる場所に生きている(場所)
  私たちはあるまち(市町村などの自治体)の市民であると同時に、アジアの市民であり、世界の市民である。
  こうした人為的な概念ばかりではない、地域を生態系のまとまりとして捉え、生命地域の市民であると考えることもできる。
  生命地域(Bio-region)は動物相、植物相、地形、土壌、そしてこれら自然の特徴に根ざした人間社会や文化の特質によって形成される。それは普通1つの河の流域、あるいはいくつかの流域を集めたものと重なってくる。
  現代という社会は、世界と人と自然を緊密に結びつけることによって、1人の人間を多様な要素が交わる場に生きる地球市民としている。
  地域の周りの隣人たちに目を向けて見よう。オールドカマー(日本の植民地支配の結果として日本に渡ってきた朝鮮人・中国人の1~4世)、ニューカマー(日本の経済力にひかれて働きに来ているアジア、アフリカ、ラテンアメリカの人々)と実に多様な外国人たちもまた、定住の意思を持ち地域社会に関わる意思を持つならば立派な地域社会の市民である。
  しかし、ここでは現在特に日本人の市民との間に様々な文化的対立、摩擦が発生している。
  また世界に目を転じれば、宗教的、文化的、民族的対立を原因とする戦争があちこちで起きている。ということは地球市民は、多様な市民性の現れを相互に認め尊重し合う教育を必要としているということだ。

2) 子や孫のことを考えている(時間)
  現在の世代は未来の世代に責任を負っている。北アメリカの先住民は結論を出すのに7世代先のことまで考えていると言われている。次世代の市民の権利とは何だろうか、私たちは彼らに対してどんな方法で私たちの行為の責任を問うのだろうか? 例えば、投資責任と、環境の持続可能性(Sustainability)との関係がある。私たちは毎日お金を払って、色々なものに投資している。買い物、貯金、税金などなど。私たちの税金を使って行われるODA(政府開発援助)や大規模公共事業などへの投資は、本当にその地域の人々(と次の世代の人々)のために使われているのだろうか。私たちが未来の地域と市民のための責任を果たすには、私たちの価値観や、ライフスタイル、社会のスタイルをどの様に変えて行かなければならないのだろうか?

3) 行動的である(変革:学習⇔行動)
  市民とは、地域と地球に責任を持つ存在である。変化する社会の課題、地域と地球、人間の課題について常に敏感であり、学び、話し合い、課題解決に向けて行動する人間である。

4) 地球と深く結びついた人間性をもつ(内面:内の世界⇔外の世界)
  地球市民はこの生成し発展する宇宙の中で、地球の生態系(動物、植物、自然環境)と共にある存在である。自然無しでは、私たちは不完全な存在であり、責任ある市民にはなれないのである。言い換えれば、私たちの内側の世界は外側の世界とつながっている。自然を壊すと社会を壊す、そして心も壊すということだ。20世紀、人間は自己の拡張を自然の収奪と破壊の上に成し遂げてきた。それはもはや続けることは出来ない。人間の発展を、経済の規模の拡大や他者の文化・アイデンティティの征服の上にではなく、文化の多様性のうえに花開く精神の発展に求めなくてはならない。21世紀に向かうにあたって、私たちは地球と深く結びついた人間性を養い、それを発展させることを目指さなければならない。地球と深く結びついた人間性を取り戻すことにより、私たちは「私一人が何かしても、どうせ変わらない」という不信と絶望の悪循環から脱け出し、「私が変われば、世界は変わる」という信頼と希望のサイクルを作り出すことができる。

■ 方法:相互のエンパワーメント


(図1)新しい人権教育:自分を大切に→なかまを大切に→公の意識市民として→地球を大切に  持続可能な開発のための教育の10年(ESD)はお互いの力づけのプロセス
  ESDとは何をどのように学ぶ教育なのだろうか。それは、自分から出発して社会の課題を学び、自分と社会のつながりや課題どうしのつながりをつかみ自分を世界を変革する主体として(地球市民)として育てあっていく(相互のエンパワーメント)プロセスである。
  2004年1月末に新潟で開かれた「ESD地域ネットワークミーティングにいがた」でのワークショップであるグループがつくった「新しい人権教育(つまりESD)の絵」(図1)は、見事にそのことを表している。

■ 展開:持続可能な地域とアジアを目指して


  私たちがめざすべき持続可能な社会はコミュニティを基盤としアジア規模の共同によって実現される。
  産業や労働に自然と生活を従属させるのではなく、自然や生活を豊かにするために産業や労働を再構築する。自然の循環に沿った暮らしをたてなおし、環境という共有資源を政府だけでなく企業・市民が一緒になって管理する環境協同管理を確立し、コミュニケーションと共同を豊かに発展させる。
  「食糧とエネルギーとケアの地域自給自足圏」(内橋克人)をめざして自立した持続可能な地域経済を確立する。
  このローカルな自給自足圏をベースとしたリージョナルな解決策、つまり東アジア規模での環境協同管理、共通政策づくりに踏み出す。
  アジアでのESDの展開は、いま日本のESDが直面している<市民の形成>という大きな課題を担うことになる。日本のコミュニティ・エンパワーメントの実戦と経験が問われることになるだろう。
  持続可能な未来へ、豊かな学びと参加を。

※なお、紙数の制約で地域での具体的な展開について触れることができなかった。これについては、農文協発行『自然と人間を結ぶ(農村文化運動172号)』特集「国連・持続可能な開発のための教育の10年 -私はこう考える」所収の拙文「コミュニティ・エンパワーメントをめざして」を参照いただきたい。
※本稿はECOMニュースレター(2003年3月号及び2004年3月号)の拙文をまとめたものである。