MENU

ヒューライツ大阪は
国際人権情報の
交流ハブをめざします

  1. TOP
  2. 資料館
  3. 国際人権ひろば
  4. 国際人権ひろば No.55(2004年05月発行号)
  5. NGO・NPOの活動における「自己責任」と政府の責任

国際人権ひろば サイト内検索

 

Powered by Google


国際人権ひろば Archives


国際人権ひろば No.55(2004年05月発行号)

人権の潮流

NGO・NPOの活動における「自己責任」と政府の責任

柏木 宏 (かしわぎ ひろし) 大阪市立大学大学院創造都市研究科教授(NPO論)

 イラクで武装勢力により拘束されていた5人の日本人に対して、政府の勧告にしたがわず危険地域に入った人々が悪いという、「自己責任」論が台頭している。こうしたなかで、4月26日付けの毎日新聞によると、今井紀明さん、郡山総一郎さん、高遠菜穂子さんの3人の家族は、ドバイ-羽田間の飛行機代など、合計約260万円を支払うことになるという。
 国家が国民を保護する義務について十分議論が行われないまま、外務省が救出費用の一部を徴収することで、「自己責任」への対応策に既成事実を作ったことに、強い疑問を感じる。拘束された5人は、必ずしもNGO・NPO(以下、NPO)の関係者ではないが、NPOとの関連からこの問題が議論されている面が強い。このため、NPO活動という観点から、「自己責任」の問題を考えてみたい。

リスクとミッション


 NPOにとって、「自己責任」は、いくつかの意味において重要である。ひとつは、リスク・マネジメントとの関係だ。外務省は、邦人に対して度々、イラクからの退避勧告を行っていた。したがって、イラク入りした場合、相当のリスクが生じることが予想されたという主張は妥当である。しかし、この予想されるリスクに、NPOは、どう対応すべきかとなると、答えは単純ではない。
 リスク・マネジメントの観点からいえば、予想されるリスクへの対応策は、回避、修正、移転、維持の4つに大別できる。今回の事件でいえば、イラク行きを中止することが回避である。修正には、セキュリティをつけて入国する、入国経路をより安全と考えられる方法に変更するなどが考えられる。移転とは、リスクを他人に代わってもらうことだ。今井さんと郡山さんの例で考えると、イラク現地にいる人々から情報を得ることで自らはイラク入りしないことなどが移転に当たる。維持とは、意図的にリスクを負うことである。
 拘束された5人に対して、「自己責任」を主張する人々は、上記のうち回避すべきであったにもかかわらず、それを怠ったと批判している。しかし、リスクへの対応は、回避だけではない。また、回避が最善の策でないことも多々ある。なぜなら、NPOには、ミッションがあり、活動を行うか否かの判断において、ミッションが最大の判断基準になるからだ。
 例えば、高遠さんは、イラクのストリート・チルドレンの救援活動を行っていた。戦火が激しくなればなるほど、ストリート・チルドレンの数は増えるだろう。とすれば、高遠さんのような活動を行う人や団体にとって、リスクへの対応において回避という手段をとることは、ミッションを反故にすることにつながりかねない。
 フリーのジャーナリストで拘束された安田純平さんや郡山さんの場合、戦争の現実を伝えることを使命としてイラク入りしたという。日本の大手のメディアの大半は、イラクから特派員を引き上げ、情報の多くを外国のニュース・ソースや日本からのフリーのジャーナリストらに依存している。リスクを移転させているのだ。
 リスクの移転という対処法は、移転させられたリスクを引き受ける人や団体が存在しなければ機能しない。大手メディアが「知る権利」を擁護しているといえるのは、移転されたリスクを引き受ける安田さんや郡山さんのような人々がいるからだ。もし、リスクを引き受ける人や団体がいなければ、私たちは大本営発表ならぬ、中央軍発表を鵜呑みにしなければならない危険性を負うことになる。彼らは、この危険性から私たちを救おうとしたともいえよう。

政府と異なる公益性の尊重


 「日本の常識は世界の非常識」という人々がいる。憲法9条を批判し、防衛力という名の軍事力の強化を主張する人々だ。イラクでの日本人拘束事件において、「自己責任」を声高に主張しているのは、この「日本の常識は世界の非常識」論を展開している人々が大半のようである。だが、彼らのいう「自己責任」は、世界の常識なのだろうか。
 ニューヨーク・タイムス紙は、4月23日付の紙面で、日本の「自己責任」論の台頭について1面で報じ、解放された人質を「犯罪者」のように扱う動きを批判的に伝えた。AP通信も同日、「人質に非難の嵐」という見出しで、解放された人々が「受刑者のように家に閉じ込められている」と紹介。また、ルモンド、南ドイツ新聞など欧州のメディアも、「自己責任」をいぶかる記事を掲載している。
 極めつけは、アメリカの湾岸戦争の統合参謀本部議長で現在国務長官のパウエル氏の発言だ。同氏は、「リスクを覚悟しなければ、世界は前に進まない」としたうえで、高遠さんら3人を「誇りに思うべき」と指摘。また、「危険を冒したお前が悪いということにはならない。彼らを無事に救出する義務が我々にはある」と述べた。
 パウエル長官は、拘束された人々だけでなく、イラクに派遣されている自衛隊員も「誇りに思うべき」と語った。ここには、ふたつの意味がある。ひとつは、イラクにいる自衛隊を撤退させたくないこと。もうひとつは、拘束された人々と自衛隊員を同列に置くことで、政府と異なる公益性を尊重する姿勢を示したことだ。
 NPOは、公益を追求する組織である。公益あるいは公共は、政府の独占物という認識は、過去のものだ。パウエル発言は、それを再確認したにすぎない。そのうえで、自国民保護という政府の責任は、政府の責任として残ることを指摘している。この発想は、日本で「自己責任」を主張する人々の間に微塵も感じることができない。
 今回の「自己責任」の議論は、さまざまな問題を含んでいる。NPOにとって最大の問題は、政府と同様に公益的な活動を行う権利が侵害された点にある。もし、自衛隊員が拘束されたなら、日本政府は「自己責任」というだろうか。「お上に任せておけ」から「お上に楯突くな」という社会に戻す動きを認めるのか。イラクでの邦人拘束事件は、NPOに大きな課題を残している。