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国際人権ひろば No.49(2003年05月発行号)

特集 2・「第3回世界水フォーラム」を振り返る Part 2

水は誰のもの? 人々の「水に対する権利」を考える

川村 暁雄 (かわむら あきお) 神戸女学院大学文学部教員

 2003年3月に開催された世界水フォーラムと閣僚会議。この場では、「水は人権である」とするNGOと企業・政府の間で意見の食い違いがみられた。「水が人権である」というのはそもそもどういうことなのだろうか。なぜこのことがNGOの間で課題とされ、他方、企業や政府は消極的だったのか。

■ 水が人権であるということを否定した政府と企業


 おそらく野宿者の方をのぞく日本のほとんどの人にとって、水は当たり前に手に入るものだ。「水は人権である」などと考えながら水を使っている人はほとんどいないだろう。 だが世界の現実はそうではない。5人に1人は安全な水が飲めず、毎年3~400万人(その中の半数以上が子ども)が不衛生な水のために命を失っている(WHOの報告による)。水を人権として位置づけ、しっかりと保障することが重要なのは、こうした現実があるからだ。
 今回の世界水フォーラムでも、多くの団体が「水は人権である」ということを訴えた。NGOだけではない。02年11月には国連社会権規約委員会が「水は基本的な人権である」とする一般的意見No.15をまとめている。だが、世界水フォーラムに併せて開催された閣僚級国際会議に集まった閣僚たちはこうした意見に耳を貸すことはしなかった。同会議の宣言(閣僚宣言)では「水は基本的人権であり、すべての人々に保障されるべきという国連の場で確認された根本原則さえ確認されることなく終わった」のである(「世界水フォーラム市民ネットワーク」03年3月23日の声明)。
 なぜ、政府の代表者たちは「水が人権」であるということを認めようとしなかったのか。水が人権である、ということを認めるとどんな問題があるというのだろうか。

■ 「水が人権である」とは?


 水が人権であるということは、そもそも何を意味するのか?これについては、国連社会権規約委員会がまとめた上述の「水に対する権利に関する一般的意見」が参考になる。この文書をもとに簡単に解説してみよう。
 まず、なぜ水は人権なのか。なによりも、人間が基本的な生活水準を維持するために必要だからである。基本的な生活水準の維持は、世界人権宣言(第25条)でも謳われているし、より拘束力の強い経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約(以下、社会権規約と略)の11条でも「自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を含む十分な生活水準についての並びに生活条件の不断の改善についてのすべての者の権利を認める」とはっきり書かれている。生活水準の維持のためには、水は必要不可欠である。このため、水も人権の一部となる。
 では、「水が人権」であるということは何を具体的に意味するのだろうか。私たちは、ただで水を使える、ということなのか?
 残念ながら、そこまでおいしい話ではない。もちろん人権を守る最大の責任は政府にあるのだが、それはすべて政府におんぶにだっこでいい、ということではない。人権を守るために政府がしなくてはならないのは、(1)自ら人権を奪わないこと(尊重の義務)、(2)他の人に奪われないように守ること(保護の義務)、(3)奪われている人の人権を充足すること(充足の義務)の三つの義務を果たすことである(一般的意見、para.20)。これは、すべての人に水を無料で提供するというようなことを意味するわけではない。
 尊重の義務には、例えば先住民族や慣習的な水利用手段を一方的に規制したり破壊したりしないことや、紛争時・災害時に水関連施設を保護することなどが含まれる。
 保護の義務は、水への権利が第三者の行動によって侵害されないように守る義務である。井戸水の汚染を放置していたり、水道事業の民営化によって貧しい人に水が提供されなくなることをそのままにしていたりすると義務違反となる。また、水への権利が侵害されたときに裁判などの方法で権利の回復や、賠償の請求ができるようにしなくてはならない。
 充足の義務とは、何らかの事情で水が得られない人に対して、必要な水が供給できるよう最大限の努力を払わなくてはならない、というものだ。特に注意しなくてはならないこととして、(a)低コストの技術を使うこと、(b)無料や低価格の水など権利が保障できる価格政策、(c)収入補助などを用いて負担可能な費用で水を供給すること(一般的意見、para. 27)があげられている。ここで重要なのは、「最大限の努力を払っているかどうか」、つまり、ニーズを充足出来ていない場合にそれが「力不足」(財政難や人員、技術力の欠如)のせいなのか、ニーズ充足の意志がないからかをはっきりすることである(para. 41)。前者ならばその政府の責任ではないかもしれないが、後者ならば、明らかに「充足の義務」違反となる。
 このようにみていけば、「水に対する人権」を保障するために政府がやらなくてはならないことは、とにかく水を与えるということではない、ということがわかる。重要なのは、水に関わる政策を行う際に、(1)住民の参加を保障し、(2)住民が守られるような立法措置をとったり法律がちゃんと守られるような仕組みを作り、(3)自らの行動について説明責任を果たすことなのである。住民の参加や意見を聞かなければ、住民の権利を侵害しているかどうかはわからず、「尊重の義務」は果たせない。水の供給や安全性を保障する法律がなかったり、もしあってもそれがちゃんと守られる仕組みがなければ、「保護の義務」を果たすことはできない。また、自らの政策についてちゃんと説明責任を果たさなければ、政府の力量が足りないからやむを得ないのか、やる気がなく「充足の義務」違反となっているかがはっきりしない。結局、問われているのは、政府が人々の声をちゃんと聞き、責任ある対応をとれるかどうかということになる。

■ なぜ政府は水を権利とすることに乗り気ではなかったのか?


 責任ある対応を行うという当たり前のことを行えば、水に対する権利が守れるならば、なぜ政府は閣僚宣言に盛り込まなかったのだろうか?本当のところはよくわからないが、考えられる理由はいくつかある。
 一つは、残念ながら責任ある政府が世の中にはまだまだ少ないということだ。法律や司法制度の不備や、不十分な住民参加は発展途上国でしばしば問題になることだが、日本のように住民参加、情報公開による透明性、説明責任などの考え方がやっと真剣に語られ始めたばかりの「発展途上政府」を持つ先進工業国もある。こうした国は、人々の権利を保障することがヘタなので、人々が権利についてなるべく語らない方がよいと考える。
 もう一つは、国際的な「義務」について触れたくない先進工業国の意向が考えられる。実は、社会権規約2条では国際社会の義務を視野に置き、「個々に又は国際的な援助及び協力、特に、経済上及び技術上の援助及び協力を通じて、行動をとること」を規定する。さらに、援助だけが国際的に人権を守る方法ではない。国際協定なども、人権を侵害してはならないということになる。社会権規約委員会は、特に貿易の自由化についても触れており、それが「水に対する権利の完全な実現を確保する一国の能力を削減し又は抑制するものであるべきではない」と釘をさしている。
 実は、この二点目は政府だけではなく企業の利害とも対立する。現在、先進国に後押しされた世界的な規制緩和への流れを活用し、水道事業の委託などで儲けている企業(テームズやビッテル等)は、サービスの自由化を強く後押ししているからだ。内向的になっている政府も、どうせお金を出すのならば、「権利を保障するための義務」として出すのではなく、自国の企業が儲かる形で出したいと考え始めている。こうしたことも背景となっていると考えられよう。

■ 「水マフィア」の今後の動向


 今回の閣僚宣言で「水は人権」であるということを政府が認めなかった本当の理由は、よくわからない。ただ、世界水フォーラムを支えている中心的な組織である世界水会議は、水で儲ける多国籍企業が中心となって設立した組織で、世界銀行、国際通貨基金の関係者も参加している。NGOは、これらを「水マフィア」と呼んでいる。こうした水マフィアが動かしてきた世界水フォーラムと閣僚会議が、利益を優先し、権利を脇に置いてしまうのは理解できないことではない。しかし、それがこれからの世界をより健全なものとするためには良いことではないのは間違いないのだ。