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国際人権ひろば No.45(2002年09月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

私を鍛えてくれたベトナムの子どもたち

高橋 佳代子 (たかはし かよこ)
龍谷大学経済学研究科民際学研究コース修士課程

運命を変えたメコンデルタ

 2000年の幕開けを私はベトナム社会主義共和国のメコンデルタ地方にあるチャウドックという街で迎えていた。そのころ私はハノイでのベトナム語留学を終えて、日本の大学院進学を考えて帰国する前のささやかな卒業旅行と称して、ハノイで鍛えたベトナム語の集大成としてメコンデルタをローカルバスで周るという旅をしていた。

 ベトナムという国は南北に長いSの形をした国で日本の4分の3の面積に約7600万人が住んでいる。これだけ南北に長ければ地域差があるのもあたりまえで、私が勉強したハノイの言葉(ハノイが首都であるため標準語とされる)はその旅では半分しか役に立たなかった。私が話しているハノイ弁はメコンデルタの人にはわかるのだが、メコンデルタの人びとが話すことばが私にはさっぱり理解できなかったからだ。

 ハノイの人は初対面ではなかなか打ち解けず、話をしていてもとても礼儀正しい。時間をかけて関係を深めていくという傾向がある。だから別れの挨拶をする時に「今度遊びにきてくださいね」という一言が必ずあるのだが、これを間に受けて遊びに行ったりしたら「この人間はなんて図々しいのだ」と思われてしまう。しかしこれが南部に行くと話は逆になる。熱帯の気候で食べ物の多い地域だからこそ、他の人々を受け入れる大らかな気質が生まれたのだろう。南部の人々の「遊びにきてくださいね」の意味は「私たちの土地によくきてくれた。ゆっくりしていってくれ」という初対面の人間に対してのもてなしの精神なのである。そしてこのもてなしの精神が一番強いのがメコンデルタ地方である。日本人である私がベトナム語を勉強することが彼らにとってはとてもうれしかったらしい。バスに乗っても、ホテルにいっても、街を歩いていても必ず誰かが話しかけて世話を焼いてくれた(もちろんお金目当ての場合もあるが)。

 大学時代に東南アジア諸国に対する日本のODAやNGOの活動をテーマに研究していたので、ベトナムの社会問題や、NGOの問題にも興味があった。そして「このまま多様なベトナムがあることを知らずに大学院へ進学してもよいのだろうか」という疑問が沸いてきたのである。日本へ帰るチケットはすでに買っていたが、北部と南部の違いを見せつけられた私は、ベトナムに戻ってくることを決意してメコンデルタの旅を終えた。

青葉奨学会との出会い

 3ヶ月の一時帰国を終え、2000年4月から南部のサイゴン(ホーチミン市)での新しい生活が始まった。大阪弁と東京弁が同じ日本語でもまったく違うように、ベトナムでもハノイ弁とサイゴン弁は違う。中国の影響を受けた北部、朱印船貿易で栄えた中部や、クメール文化やイスラム文化の影響を受けた南部、加えて気候の違いも3地域の言葉の違いを生み出した。ベトナム戦争も強い影響を与えている。

 普通、人々はそれぞれの出身地域の言葉しか使わない。郷に入っては郷に従えの教えにならって私はまずサイゴン弁を勉強し始めた。しかし言葉というのは不思議なもので一生懸命サイゴン弁を話そうとすればするほどハノイ弁が出てしまう。日本語で「はい」というのはベトナム語で書くと「Da」となる。しかしハノイ弁が「ザ」と発音するのに対してサイゴン弁では「ヤ」と発音する。

 つまり発音体系が規則的に変わるのである。さらに基本的な単語も変わってくる。例えば「太っている」をハノイ弁では「Beo」(べオ)と発音するが、サイゴン弁では「Map」(マップ)というふうにまったく違う言葉を使う。

 一度地方政府のベトナム語通訳のアルバイトをした時にその省の役人に「あなたハノイ弁は上手だけど、ここは南部なのだからサイゴン弁を話しなさい。まずその返事のしかたからね」と皮肉られたことがある。

 やっとサイゴンの生活に慣れてきた頃、知り合いからベトナム語の手紙を日本語に翻訳するボランティアを探しているといううわさを聞いた。その頃の私は自分のベトナム語能力をどうやって伸ばせるのか、どこで実践したらよいのかと考えていたので私のベトナム語が少しでも役に立つのなら、という軽い気持ちで「青葉奨学会」の事務所を訪ねた。

 青葉奨学会はドンズー日本語学校の中にある奨学金支援団体である。奨学金を受ける子どもたちは主に高校生以下で、優秀にもかかわらず経済的に厳しい家庭の子どもたちだった。そのとき代表のホーエ校長が「私はこの奨学金支援を慈善事業でやっているのではない、将来のベトナム発展のためにやっているのだ」と聞いてああこの人はきちんとベトナムの未来を考えている人なのだなと感心した。また資金援助は日本の3つの団体から受けていたがベトナム人が中心になって運営していることも私の興味を惹いたことのひとつだった。ちょうど日本人スタッフが帰国する前で、後任を探していた時期と重なってひょんなことから私はこの青葉奨学会ホーチミン事務局のスタッフを引き受けることになった。今から思えばこれが縁というものなのかも知れない。

こどもたちと接して

 ベトナムの学校は日本の制度と少し違う。まず二部制なので学校は毎日半日ずつである。小学校5年間、中学校4年間、高校3年間である。中学・高校へ進学する時は日本と同じように試験を受けなければならない。最近サイゴンなどの大きな都市では受験戦争が過熱していてみんな塾に通っている。見ていると気の毒になってしまうくらいだ。

 最近日本では学級崩壊や不登校の問題が深刻になっているが、ベトナムでは考えられない事態である。時々日本からお客さんが来たときに、日本の教育事情をベトナムの子どもたちに話すことがあるのだが、子どもたちにはどうしても理解できないらしい。「どうして先生に逆らうのか、学校にいけるのにどうしていかないのか」と質問される。ベトナムは中国の影響を強く受けた国なので儒教の教えが根強く残っている。「両親と先生の教えは絶対」といわれるほど先生を尊敬する気持ちは強い。

 また公立学校の授業料は比較的安いが、制服代や教科書代は各個人で負担しなければならないので、いきたくても全員が学校にいくことができるわけではない。今の日本からは考えられない状況かも知れない。

 ただし公立学校に通うことのできない子どもたちも、特別学校(授業料が無料の学校)やボランティア教室と呼ばれる寺子屋のようなところへいくチャンスはある。きょうだいが8人いる家族では1人だけ学校へ通って他のきょうだいに勉強を教えるというケースも珍しくない。

 そうしたなか奨学金を受けている学生は手紙の中でさまざまなことを書いてくる。家族の悩みや、成績の悩みから自分で創った詩を綴ってきたり、日本へのあこがれをとうとうと語る手紙までまさに十人十色である。時々B5サイズの便箋に3枚とか4枚で綴られていると翻訳する私のほうは「長すぎる!」と弱音を吐きそうになるのだけれども、子どもたちが一生懸命書いている姿を想像するとこちらも一生懸命翻訳してしまう。またサイゴンの市内に住む子どもたちへは2ヵ月に一度奨学金を手渡しているので否応なしにみんなに会う。そうすると先生でもないのにみんなが私に向かって「Chao Co」(先生、こんにちは)と両腕を組んでお辞儀をしていく。とてもはがゆくなってしまう一瞬である。

 青葉奨学会で奨学金をもらっている子どもたち以外にも多くの子どもたちに出会い、ベトナムという国の豊かさを教えてもらった。彼らは確かに学校へは行っていないが様々な能力を持っていた。絵を書いたり、人を感動させる写真を撮ることができたり、何よりも生きていく力を持っていた。たまたま日本に生まれた私のように、日本で安穏と暮らしてきた人間よりはとても強い。そんな彼らを私はすてきだと思うと同時に、やりたいことができる自由とは何なのだろうということを考えさせられた。

 現在日本に帰国して、よく考えるのはどこにいても子どもたちを取り巻く状況は決して良くないということである。きっとどんな国でも、どんな制度の地域でも社会的弱者である子どもたちがしわ寄せを受けるのかも知れない。ベトナムの子どもたちからたくさんのものを教えてもらった。これから私がどうやってそれを周りの人々へ返していくことができるのか、それが課題である。

1975年4月30日、「サイゴン解放」により長年続いたベトナム戦争は終わりを告げた。現在サイゴンという街はホーチミン市と行政上の呼び名は変わっている。しかし、今でもそこに住んでいる人々は親しみを込めてサイゴンと呼んでいることから、ここでもそれにならってサイゴンと表記している。