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国際人権ひろば No.45(2002年09月発行号)

「国際人権わいわいゼミナール」の報告

「アフガニスタン復興の現状-現地NGOからの報告」

第3回わいわいゼミナール

Qasim Zamani (カシム・ザマニ)
ネジャットセンター代表

国際社会とアフガニスタン

 私は1962年にクナール州に生まれた。祖父は「建国の父」と呼ばれる元国王の側近だった。大学では文学部およびメディカルスクールで学ぶが、いまは難民としてパキスタン・ペシャワールで生活を送りながら、ネジャットセンターを立ち上げ活動している。

 アフガニスタンは1979年以前、平和な国だった。大きな国ではなかったが、人々は非常に勤勉で、子どもたちは学校へ、若者たちは大学へ通う生活を送っていた。そこへ1979年にソ連が侵攻を始めた。アフガニスタンはアジアの心臓部として、内陸からインド洋に通じる道の確保のためにも、戦略的に大変重要な位置を占めている。

 ソ連侵攻は、西側諸国対共産圏の利権争いとして起こったもので、アフガニスタンは、西側からの支援を得てソ連と戦うことになった。その結果アフガニスタン側で約200万人が死亡、約300万人が負傷し、さらには約100万人の戦争孤児と約100万人の寡婦、約600万人の難民が生まれ、多くはパキスタンやイラン方面へ避難することとなった。また、高等教育を受けた人々の多くは先進諸国に定住した。自分自身もアフガニスタン国内に留まることが難しくなったため、日本の家庭に里親になってもらって2年余り日本に滞在した。

 その後パキスタンに渡り、難民支援の活動を始めた。ソ連駐留中の西側諸国からのアフガニスタン支援は、ソ連の撤退・崩壊後に縮小し、アフガニスタンへの関心は薄れてしまった。西欧諸国はムジャヒディンとソ連の闘争中は、アフガニスタンへの継続した支援を約束していたにもかかわらず、その約束を反故にした。このためもあって、アフガニスタンの政治状況は、共産主義から原理主義に傾いたように思う。

ネジャットセンターの活動

 わたしはまず献血をすることで難民である子どもたちの手術を助けるボランティアグループを立ち上げ活動を開始した。パキスタンやイランの病院では自国民への治療を優先するためアフガニスタン難民の治療は拒否されている。その時期に偶然再会したかつての大学の学友は、ムジャヒディンに捕らえられ麻薬依存症になりながら、満足な治療を受けられず、余病を併発して1カ月後に亡くなった。そんな現実がNGOネジャットセンターの設立をうながした。

 現在のアフガニスタンでは麻薬で命を落とす人があまりに多い。希望のない戦争で傷つき、肉親さえ失う最大の犠牲者は、常に子どもたちである。医師や、教師、エンジニアになりたいという夢を持っていても、そのための教育施設もない。「自由」と「救済」を求めて立ち上げたセンターだったが、危険を伴う活動のため周辺のアフガニスタンの人々からは協力を得られず、ドイツ人2名と日本のNGO「燈台」の渡辺章さんが協力を申し出てくれた。

 これまで原理主義政府が、とくに女性に対する教育を制限してきた。また、政府に反対できるだけの知識を持った人々は国内に残っていなかった。2001年9月11日の同時多発テロ事件を機に、先進諸国はやっとアフガニスタンにおけるこれまで20年以上にわたる失策に気づいた。ソ連撤退後のアフガニスタンの国づくりに協力するという約束を反故にしたツケがまわってきたのだ。アフガニスタンには各国から原理主義者が集まってきていた。

 アフガニスタンへの空爆が始まり、人々は爆撃と干ばつの二重苦によってまたも難民となった。この厳しい状況の中、SVAが救援を申し出た。アフガニスタン国内における食糧支援、子どもたちの栄養改善、ストリート・チルドレン対策は、人々の難民化を防ぎ、数千人の人々の雇用機会創出となった。困っている人々へ魚を与えるのではなく、魚のとり方を教えることが大切だと思う。

 また、私たちはストリート・チルドレンの支援も行っている。交通事故で重症を負った難民のベカイという名の女の子を、わたしと友人たちが協力し、約1000ccを輸血し助けたことが始まりだ。

 その一件をきっかけに調査したところ、2万人以上の子どもが稼ぎのないために路上で暮らすストリート・チルドレンとなっていることがわかった。人身売買され、手足を切って物乞いをさせられている子どもたちがいた。

 かれらを中東に売るシンジゲートの存在も明らかとなった。わたしたちは3つのキャンプで、子どもを路上からセンターへ、センターから家庭へ、家庭から学校へ戻していく活動を開始した。一連のプロセスには約6カ月かかる。同時に、子どもたちの家族へもカーペット織りや縫製などの職業訓練の機会を提供する活動を行った。重傷を負い運ばれたベカイの家族もカーペット織りの技術を習得することができた。ベカイ自身は、高校を卒業したらソーシャル・ワーカーになって、ストリート・チルドレンを助けたいと希望している。

アフガニスタン復興に支援を

 いま、アフガニスタンは原理主義から解放され、ゼロからスタートする地点に立った。アフガニスタン国内ではこれまでの経験を持つ多くの人々が死んでしまったため、経験から学ぶことは難しい。23年間の戦争中に生まれた子どもたちは、教育を受けることができなかった。日本の人々が行ってきた国づくりの経験をわたしたちアフガニスタン人にシェアしてほしい。日本の経験から学びたい。日本の人々や、NGOには、アフガニスタンの子どもたちへ多くのことを教えてほしい。またさまざまな施設を提供し、協力していただきたい。

(構成:前川 実・ヒューライツ大阪)