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国際人権ひろば No.113(2014年01月発行号)

国連ウオッチ

いじめ言葉(ヘイトスピーチ)におびえる社会と「ありがとう」に満ちた社会

窪 誠(くぼ まこと)
大阪産業大学教授、ヒューライツ大阪事業評価委員

 「切る幸せ」としてのいじめ

 
 「お前なんか死んでしまえ」「あなたなんかいなければいいのに」。
 読者の中にも、こんなひどい言葉を投げつけられたことがある人がいるかもしれない。こうした言葉は、人間存在そのものを否定する。家庭や学校や職場で、こうした言葉を毎日のように投げつけられ、本当に自らの命を絶ってしまうといった悲しいできごとも頻繁に起きている。このように、他の人を貶めることによって感じる幸せを、「切る幸せ」と呼ぼう。すなわち、「あなたが不幸だから自分が幸せ」と感じる幸せである。
 よく、「いじめられる側にも問題がある」と言われるが、「誰の何が問題なのか」を決めるのはいじめる側であって、いじめられる側では決してない。「いじめられる側にも問題がある」という言い方に意味があるとすれば、「その問題は、いじめる側がいじめられる側に相談も断りもなく、勝手に決めたこと」というに過ぎない。実際、いじめの理由の多くは、いじめられる者の外見であれ、態度であれ、結局は、いじめる者から見て「気に食わない」とか「気持ち悪い」という主観的な欲望や感情である。
 
 

 いじめの原因はいじめる側にある

 
 「あ~、自分の欲望や感情で他の人の存在を否定してしまうのはひどいことだ」と反省して、いじめをやめれば問題ない。しかし、逆に、いじめの原因を、いじめられる側の「本来的属性」に見出そうとする場合がある。そうした「属性」の中で、もっとも頻繁に利用されてきたのが、女性、人種、外国人、障害者、部落だったのである。「おんなのくせに」「黒人のくせに」「朝鮮人のくせに」「障害者のくせに」「部落のくせに」。いじめる側は、「自分がいじめているのではなく、そもそも、そうした人々は、本来的属性からして劣っているので、自分はそれを指摘しているにすぎない」というのである。もっとも悲しいことは、いじめられる人が、「本来的属性」なるものを信じてしまい、「自分は」、「おんなだから」「黒人だから」「朝鮮人だから」「障害者だから」「部落だから」、「いじめられるのはしかたない」と思ってしまうことである。
 
 

 いじめと学問

 
 なぜ、「本来的属性」なるものを信じてしまうのか。それは、「本来的属性」なるものが、学問によって「客観的な真実」として説明されるからである。実際、学問とは、世の東西を問わず、少数のエリートが多数の人々を支配するために生みだされたものである。今も欧米で学問の基礎とされるアリストテレスは、後にマケドニア帝国を築くことになるアレキサンダー大王の家庭教師であったし、東洋で今も読まれている、孔子をはじめとする諸子百家も王に仕え、支配者の徳を説いていた。王や皇帝による支配は、天や神の意思、自然の法則として、長い間説明されてきたのである。
 たとえば、アリストテレスの『政治学』に「人間は社会的動物である」という有名な言葉がある。今日、この言葉は、「人はひとりで生きることはできないので、助け合って社会を作る動物である」という趣旨で使われることが多い。ところが、もとの意味は全く逆である。すなわち、「この世に存在する一切のものは、支配する部分と支配される部分から成り立つ。だから、人間社会も同じく、支配する部分と支配される部分から成り立つ」。これは今日でも、日常的な言葉の中に確認することができる。一切の物は物体(body)と呼ばれる。その中でも、天は天体、国は政体、人の集まりは団体というように、すべてに「体」がつく。なぜなら、「体」は、支配する部分である頭(キャプテン、チーフ)と支配される部分である手足(メンバー)から成り立っているからである。英語でもフランス語でもドイツ語でも同様である。ちなみに、天体の頭は神である。物体は、支配する部分を形相、支配される部分を質料という。
 自然という「客観的な真実」がこうなっているのだから、人間社会もそれに従えという教えも、実は、その自然自体が、あらかじめ支配者の欲望に都合よく設定されたものである。近代になっても、これは変わらなかった。ヨーロッパによる植民地支配の歴史は、その典型である。ヨーロッパ人の支配欲が動機であるにもかかわらず、支配される側のアジア人、アフリカ人が人種的に劣っているという「本来的属性」が原因とされ、ヨーロッパ人は、彼らを文明化する使命を神から授かったというのである。ダーウィンをはじめとする進化論は、これを生物学における適者生存のための競争として支配を正当化した。その行きつく先は、優生学によって劣等とされた障害者、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)の抹殺であった。
 
 

 人権の国際化

 
 第二次世界大戦後に設立された国際連合は、そうした人類規模のいじめを反省し、人権の国際的保障を活動目的のひとつにした。1948年には世界人権宣言、1966年には自由権規約、社会権規約を採択する。ところが、これには大きな限界があった。なるほど、世界人権宣言第1条は、すべての人の自由と平等を説くものの、個人のモデルは、人権の歴史の初期、すなわち、17世紀イギリス、18世紀アメリカ・フランスにおける、豊富な土地と財産を所有する白人成人男性健常者、すなわち、支配者あった。今でもよく、「人権は、強い個人、自律的な個人を想定している」と説明されるが、想定ではなく、歴史的な事実だったのである。彼らにとっての自由とは、国家の干渉を受けない自由な支配であった。その被支配者が、女性、有色人種、障害者だった。それゆえにこそ、支配者らは国家の介入を嫌い、「国家対個人」という近代人権の図式をモデル化したのである。
 
 

 「結ぶ幸せ」としての社会建設

 
 ところが、世界人権宣言第1条がすべての人間の平等を説く以上、被支配者が立上がるのも論理的必然である。実際、上記2規約以後に作成された人権条約は、人種差別撤廃条約(1965年採択、以下同じ)、女性差別撤廃条約(1979年)、子どもの権利条約(1989年)、障害者権利条約(2007年)など、被支配者の人権である。
 こうした動きは、当然、従来の「本来的属性」という「客観的な真実」を問い直すことになる。ユネスコは、すでに、1950年に「人種とは、生物学的現象というよりは、むしろ、社会的神話である」と宣言した。また、女性についても、今日では、社会文化的な性のあり方を意味する「ジェンダー」という概念が主流になっている。さらに、障害者についても、医学ではなく、社会との関係性によって規定される概念であることが理解されるようになってきた。つまり、従来、「本来的属性」と考えられてきたものは、実は、彼らに対する社会とりわけ支配者のまなざしなのであった。
 こうして、人権が、従来のような「国家対個人」の枠組みではなく、「どういう社会を建設すべきか」という枠組みで議論されていることに気付く。いじめ言葉(ヘイトスピーチ)についても同様である。従来、ヘイトスピーチも「国家対個人」の枠組みで議論されたものの、この個人はいじめ言葉の発言者であり、いじめられる側の表現の自由は考慮されなかった。ところが、人種差別撤廃条約によって設置された人種差別撤廃委員会は、2013年9月「人種主義的ヘイトスピーチと闘う」と題する一般的勧告35注において、いじめられる側の表現の自由を擁護するだけでなく(28段落)、「表現の自由によって異文化理解と寛容が促進され、人種的ステレオタイプの解体が推し進められ、意見の自由な交換が促され、別の考え方や反対の考え方が獲得される」と指摘し、「すべての集団が、表現の自由の権利を行使できるような政策を取り入れるべき(29段落)」と勧告しているのである。
 いじめはいじめを呼ぶ。今日の加害者は明日の被害者かもしれないし、その逆かもしれない。いじめに怯えて生きるよりは、「あなたが幸せだから自分も幸せ」と思える「結ぶ幸せ」の方がよっぽど楽で楽しいではないか。「ありがとう」と互いに感謝し合える社会を目指そう。
 
 
注: 「一般的勧告35」の日本語訳は、ヒューライツ大阪のウェブサイトに掲載しています。筆者は監訳者。(https://www.hurights.or.jp/archives/opinion/2013/11/post-9.html)