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国際人権ひろば No.109(2013年05月発行号)

特集 3.11から3年目の南相馬市

南相馬市をあきらめない! -おたがいさまの気持ちをもって前へ-

小川 尚一(おがわ しょういち)
南相馬市議会議員

戻ってきていない多くの避難者

 
 2011年3月11日に発生した東日本大震災と東京電力株式会社福島第一原子力発電所事故による原子力災害から、気がつけば2年の歳月が流れている。この間、南相馬市に対して日本国内だけに留まらず、全世界からの多くのご支援をいまだに頂いていることに心から感謝と御礼を申し上げたいと思う。
 少しずつ復旧は進んでいるが、まだまだ復興には遠く及んでいない。人口も震災前に7万1千人だったのが、ようやく4万6千人まで回復した。しかし、依然として1万7千人が全国各地に避難したままであり、約7千人がすでに移転し住所を移してしまっている。震災の津波による死者は636人。その後の避難生活によって亡くなられた震災関連死は、およそ400人で合わせると千人を超え、まだ増え続けている。子どもたちは戻りつつあるが、義務教育で6割、高校生で7割、しかし就学前の小さい子どもたちは4割と極めて低い割合しか戻ってきていない。若い世代や家族が戻ってきていないという状況である。
 
20110805小高⑨.JPGのサムネール画像
小高区の商店街で倒壊した家。道を塞いでいるが、すでに撤去されている。(筆者撮影)
 
 このすべての原因が、原子力災害にある。福島県が他の被災県と大きく異なるのは、大震災と大津波とその後の原子力発電所事故という3重苦、さらに風評被害という4重苦に苛まれているためである。そして、この南相馬市は、震災直後に警戒区域の20kmライン、緊急時避難準備区域の30kmライン、30km圏外へと3区分され、国が勝手に線を引き、また勝手にその線をはずしたのだ。私たち南相馬市民は、それによって分断され、平成18年(2006年)に合併した3市町が、偶然にもそのライン上で分けられ引き裂かれたのである。
 
20110424鹿島⑦.JPG
震災直後の様子。左奥は南相馬市で唯一津波被害にあった真野小学校(鹿島区)。体育館が1.5m浸水した。海岸から4.2kmの国道まで運ばれてきた漁船が横たわっている。(筆者撮影)
 

原発事故で「兵糧攻め」にあった南相馬市

 
 「報告します!津波の警戒に当たり海を目視していましたら、南でボン!という音が聞こえましたので見ると、きのこ雲があがっています」。それは、2年前の震災直後、忘れもしない3月14日(月)の午前11時、市役所庁舎2階政庁で開かれていた災害対策本部会議で、本部長である桜井勝延市長の挨拶直後に、市役所庁舎の屋上から駆け下りてきた警察官の第一声だった。当時私は、学校体育館などの避難者や市民に状況を説明するため、議員としてすべての対策本部会議(1日4回)を傍聴していた。会議場が静まり返り、足のふるえを抑えることができなかった。
 「もう、終わりだ」と思った。市長は、即座に会議を中断、事実確認を指示し、12時から再開された会議では、水素爆発だと報告があった。しかし、その後市長と2人きりになった時、「もうメルトダウンしているよな」「国や東電は言わないが、そうだろうね」。どちらともなく言った。市長の「小川さん、逃げた方がいいよ」という言葉に「最後まで付き合うから」と言うのがやっとだった。市長は、以前同じ会派を組む議員仲間だった。
 そして、6万人が避難した。そのほとんどが「自主避難」である。あの1号機、3号機の爆発を目の当たりにして、親戚や受入れ自治体へ避難して行ったのだ。私の家族も山形の息子の家へ移動した。市長は市長室で2ヶ月間寝泊りした。私は、国が指示する「屋内退避」をして自宅に1人でいた。「エアコンはかけるな」「窓は開けるな」という指示。ガスメーターが壊れても修理する人がいないため、2週間風呂に入れずにいた。30km圏内は、新聞は来ない、郵便物は配達されない、運送便は届かない、スーパーは開かない、銀行も閉鎖、ガソリンスタンドも閉まっていた。病院に薬が届かないため、市内に入院するすべての患者を市外の病院に移送した。人口は1万人にまで減少し、街の中は回収に来ないごみ袋を漁るカラスと、鎖をはずされた飼い犬がうろついているばかりだった。更にこんな窮状を伝えるマスコミなどの記者が、南相馬市から一人もいなくなったのだ。
 国は屋内退避、県は30km圏内には入れないという中で、桜井市長は全国に向け「非常事態宣言」を発信し「兵糧攻めだ」と訴えた。その結果、全国からの、いや世界からの支援が、南相馬市に向けて動き出したのである。
 4月22日、国の指示である「屋内退避」を「緊急時避難準備区域」と言い方を変え、同時に隣の飯舘村が全村避難となった。市内の学校は、30km圏外の鹿島区の学校で再開し、小高区と原町区の子どもたちも一緒に勉強を始めた。子どもたちは、廊下にまで溢れ、体育館をボードで間仕切るだけで隣の声が聞こえてくるという劣悪な環境での再開だった。原町区(30km圏内)の子どもたちを鹿島区(30km圏外)の学校へ毎日送り迎えするバス8台分だけで1日100万円の予算がかかった。これを国や県には認めてもらえず、半年間続けた。
 震災後1ヶ月の間、すべてのスーパーが開いていないため、職員と一緒に食料品などを残った市民に配布した時、高齢者の方から「頭が下がります」と言われ、「いや、困った時はおたがいさまです」と素直に答えた。一方で、「今日は、何が貰えるんだ」という人もいて、「貰えるのではなく、無いものを配っています。何が必要ですか?」と聞き返したりした。6月には最初の仮設住宅がやはり30km圏外の鹿島区に建設された。さらに県は、借上げ住宅としてアパートや借家についても仮設住宅扱いをするという補助金事業をスタートさせた。
 同年10月1日には、緊急時避難準備区域が解除となり、30km圏内の小中学校も再開した。しかし、子どもの数は5割を切っていた。その前に公共施設の除染も始まっていたが、遠くに避難していればいるほど情報不足のせいか、「帰れるのですか?」という問合せが寄せられる。それは今も続いている。私は、「4万6千人が住んでいます」と答えることにしている。
 水道水については問題なく(震災直後から市の水道課と県の検査測定では常にND=不検出)、広報でも知らせているが、それでも多くの人がペットボトルの水を購入している。残念ながら地元の人が地元産の野菜を買わない。当然、流通するものは、すべて検査してOKが出たものだけである。学校給食や幼稚園、保育園においても放射能測定検査機械が設置され事前にすべての食材の検査がされている。そのいずれもがNDである。それでも不安なのだ。放射能という目に見えない恐怖を拭い去ることが出来ない。
 
0424_p4-92012年4月16日以降の南相馬市の区域指定.jpg
2012年4月16日以降の「区域」
 

いま、除染が進まない

 
 震災と原子力被害から1年が経過したとき、2年間で400億円の予算を国から確保し、業者も決定したのだが除染が遅れている。原因は、仮置き場である。南相馬市では全市の除染を進め、空間線量の目標値を自然界のおよそ2倍の年間1msv (ミリシーベルト)と定めた。そのための生活圏全域の除染を2年間で行うとしたが、仮置き場(海岸近くの市有地)近くの住民から反対があり遅れているのである。「何故、山際の線量の高い除染物を線量の低いところへ持ってくるのか?」と言うのだ。除染した廃棄物は、トンパック(大形土のう袋)に入れ、埋めるのである。実証実験では、埋める前より埋めた後の線量が下がっているというデータもある。それでも、反対なのだ。セシウム放射線の飛距離は、20mということで、住宅の周辺20m以内の木を伐採して除染していることや、30cmの覆土で4m離して仮置き場を設置するという環境省の基準があるのだから、集めてまとめて埋めて近づかなければ問題ないといってみても、やはり不安なのである。また、「中間貯蔵施設が決まらなければ、その仮置き場が最終処分場になる」と指摘する声がある。勿論、国が言う5年以内に中間処理施設を作るよう要求するが、まず地域に仮置き場がなければ除染が始まらない。除染をしなければ、不安で避難した市民が帰らない。人が戻らなければ復旧や復興も遅れるという悪循環になるのである。
 私は「正しく怖がる」ということと、「おたがいさま」と言うことをお願いしている。科学的根拠に基づいて、危険か危険でないかを判断する。そして、困っている時は誰もがおたがいさまなのだという気持ちで協力を求める。ここに住む市民がみんなで力を合わせなければ、とても復興は進まない。全世界から、全国から支援と協力を頂いてここまで来られたのである。住民がまとまらなければ、汗を流し義援金を届けて下さった方々に申し開きできないと思うのである。
 
DSCF0283(市庁舎内の一室にある臨時災害放送局・南相馬ひばりFM).jpg
市庁舎内の一室にある臨時災害放送局・南相馬ひばりFM(撮影・藤本伸樹)
 

夢と希望のもてる街をめざして

 
 原子力災害は、市民の心さえも目に見えない形で蝕んでいる。それは賠償である。これだけの被害と苦痛を与え続けているのだから、被害者に対して損害の賠償と補償は当然のことだが、それが続くことで、いつしか勤労意欲さえも失われていくのである。特に農業は、従事者が高齢化していることに加えて、避難生活に疲れ、農地の除染も進まず、東京電力の賠償で生活しているのが実態である。米は作らなくなって3年目になる。作っても風評被害で売れないだろうから作らず東電から賠償してもらう、と農業再生委員会は2013年も耕作しないとしたのである。私は、検査して放射能が検出されれば流通させないのだから、はじめから作らないと決めるのではなく、まず作ってみてはどうかと思うのだ。一部実証実験的に作るとしたが、何故みんなで作ってみようとならないのか、賠償があるからではないかと思えてならないのである。原子力災害は、働こうとする意欲さえも阻害しているのだ。
 確かにこの先、福島第一原子力発電所の廃炉は、これから研究するというのだから、私の生きている間に実現するかどうか疑問である。南相馬市小高区(旧警戒区域)は、2012年4月16日に解除となり1年が過ぎたが、国の責任で行う除染、瓦礫撤去なども遅れており、まだ人が住める状況にない。インフラ整備が完了するのに今後1年以上はかかるだろう。更に除染の課題もあり、どれほどの人が戻ってくるのか予想がつかない。人のいないところでの商店や商店街も成り立たないだろう。
 「夢や希望を持って」と言われても、原子力災害がそれを阻むのである。私の市議会の選挙ポスターで、毎回「夢と希望のもてる南相馬市を!」とキャッチコピーにしてきたのは、その可能性があったからだ。残念ながら今、それを言うことができないのは将来の見通しが立たないからである。それでも「南相馬をあきらめない」。「おたがいさま」の心を持って、みんなが力を合わせれば、10年かかっても元の南相馬市にはならないかもしれないけれど、新しい南相馬市を創れると信じている。まさに今の子どもたちが、南相馬市の「希望」であり宝なのだ。この子達のためならば、どんなことでもする覚悟でいる。
 その時までは、まだまだ多くの皆さんの後押しやお世話を頂かなければならないだろうけれど、いつか必ず胸をはって「復興しました」と笑顔でお礼の言える日が来ることを信じている。それは、子どもたちが大人になった時であっても、今からその土台を一つずつ積み上げて、将来市民みんなが幸せを体感できる南相馬市になるのであれば、私がいなくなっていてもそれでいいと思うのである。
 
【エピソード1】
 震災と原発事故被害から1ヶ月半ほど過ぎた頃、「難民を助ける会」(本部:東京)というNGOが市役所を訪れ、物資の支援を申し出てくれた。津波や警戒区域のために、家があっても戻れなくて着の身着のままで避難された方のために、11年6月より仮設住宅を建設することとなったが、そこに最低限の日用品を届けたいとの申し出だった。そこで、通常(これまでの被災地支援では)だと、その日用品(まな板、包丁、フライパン、鍋、こたつ、掃除機、食器棚、箒塵取り、風呂桶など19品目)を大型量販店から買い取り直接配送していたのだが、南相馬市の商店街や経済状況を見て是非地元の商店から購入してもらいたいと依頼をした。
 その結果、市内の商店から購入することとなったが、それぞれ取り扱っている業者を集め、出来るだけ公平公正に分配できるよう手配することとなり、行政との連携や、商店連合会の役員だということで私が仕切ることとなった。当初は、仮設住宅に避難している避難者だけとしたが、携帯電話などで連絡を取り合っていた市外に避難している市民からも「うちには届かない」などの苦情があり、福島県内に拡大した。それが全国にまで広がり、結局、全国に避難している市民のなかで、必要な方にだけ送ることとなった。そのため、避難している全市民宛に往復はがきを送り、必要の有無を確認して対応することとなった。配送に当っては、地元商業者では対応できないため、配送業者と契約して行ったが、遠くは沖縄からも要請があった。
 
【エピソード2】
 震災後2ヶ月位して赤十字社からの義援金配布の話があった。一世帯当たり一律40万円として地震、津波の被災者と原子力災害の被害者に対してだが、あくまでも30km圏内との条件だった。そこで、同じ南相馬市民でありながら30km圏外の市民は、対象にならないのかという問題になり、一つの騒動となった。この騒ぎを按じた市は、市の基金8億円5千万円を取り崩して30km圏外の市民に同じく一世帯40万円の見舞金を配布することとし、喫緊の議会である6月定例会に上程した。この議会で議決されるかどうかということで、傍聴席は満員となった。結果、基金取り崩しは本来ではないとする反対議員もいたが賛成多数で採決された。
 しかし、その騒動はそれで治まらなかった。今度は、20km圏内の避難市民が、何故30km圏外で避難しないでいる人に、市からの見舞金が出て、原発事故で家に帰れない20km圏内の市民には見舞金がないのかというのである。更に、20km圏内の避難者は、30km 圏外の仮設住宅にいることから、住民同士の争いが一時続いた。本文でも説明しているがこの20kmと30km圏外は、合併前はそれぞれ異なる町であったことから、国が勝手に引いた線によって一体化しつつあった合併が引き剥がされてしまうこととなったのだった。