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国際人権ひろば No.109(2013年05月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

あるイラン人の帰国後~13年間の変遷を追って

稲葉 奈々子(いなば ななこ)
茨城大学人文学部准教授

マジドさんの帰国

 

 マジドさんに最初にあったのは、1996年、群馬県桐生市のファミリー・レストランだった。私たちはその頃、 日本に出稼ぎにきたイラン人労働者に対するインタビュー調査を行っていた。そのレストランで、マジドさんは私たちにトンカツを勧めた。「おいしいよ」と。イラン人たちは、インタビューの際に、日本での好物にラーメンをあげたり、「仕事のあとの刺身とビール、おいしかったなあ」と懐かしんだり、日本の労働者文化に適応した人に多く出会った。
 マジドさんも、日本人の恋人もいて、ごく普通の日本人の若者と同じような生活を送っているようにみえた。そのマジドさんは、2000年5月にイランに帰国した。その後、私たちは、帰国後の調査を企画し、2002年にイランを訪れた。
 
 

シャーサバンの結婚

 

 日本にいたときは、マジドさんがイランでも都会的な生活を送っているような印象を持っていた。ハラル・フード2かどうかに頓着せず、日本の生活に適応しているマジドさんは、ヨーロッパでいうところの「統合された移民」に見えたのだと思う。実際には、マジドさんはシャー(王)に仕えてきた「シャーサバン」という遊牧民族の出身で、一族の歴史は500年前にさかのぼる。今でも結婚式には1500人の親戚が集まる。結婚は親族間で決めることが多いようで、帰国してすぐにマジドさんは、いとこの娘のシリーンさんと婚約していた。
 筆者は調査中、シリーンさんの家にしばらくお世話になっていた。イランでは男女が空間を共有しない場面が多い。マジドさんとインタビューにでかけるとき以外は、一族の女性たちは、私が彼女たちと一緒にいるようにつねにいざなってくれた。シリーンさん姉妹たちとは言葉が通じないけれど、筆者の様子から察して、何くれとなく世話を焼いてくれた。洗濯が追いつかないとみれば服やスカーフを貸してくれたり、適当な時間になるとシャワーを浴びるように導いてくれたりした。
 家には、新品の家電製品が箱に入ったまま積んであった。シリーンさんの嫁入り道具であった。家族みんなが、シリーンさんの結婚を楽しみにしているのがよく分かった。たまにマジドさんの家に泊まると、夜、シリーンさんとマジドさんが楽しそうに庭で話をしている声が聞こえていた。恋愛結婚というわけではないけれど、シリーンさんがマジドさんに恋している様子はよくわかった。シリーンさんの結婚相手がマジドさんでよかった、とつくづく思った。
 
マジドさん家族、カシャン(テヘランから260キロ南の町)にて筆者撮影.jpg
マジドさん家族。テヘランから260キロ 南の町カシャンにて(筆者撮影)
 

マジドさんのビジネス

 
 といっても、マジドさんは日本で稼いだ金のほとんどを、4階建ての家の建築に使ってしまい、それでも家を完成させるには資金が足りなかった。シリーンさんがはやく結婚したがっているんだけど、とマジドさんは言いながらも、イランに帰ってから手がけたビジネスはどれもうまくいかず、結婚資金はなかなかたまらなかった。不動産ビジネスへの投資、手動の動力をつけた竹とんぼ「アロコプター」、バイクのシートカバー、キッチンのシンクの上の棚に紅茶カップをぶらさげるフック製造、どれも短命に終わった。その頃は「日本で、キッチンの物入れの扉の裏側についている包丁を収納するものが、イランでも便利だから売れるんじゃないかと思うから、買ってきてくれないかな」と頼まれた。型をコピーして、プラスチック工場で成型して売るつもりのようだった。イランを再訪した際、適当なものを見繕って持っていったのだが、このキッチングッズ計画もいつの間にか沙汰止みとなった。
 次にイランを訪れた時には、母親と未婚の姉とマジドさんが3人で住んでいた家を売った資金を投入して、立派な4階建ての家が完成していた。さらに2008年にイランを訪問した時には、マジドさんは学校に通って日本語のガイドの資格をとっていたが、「悪の枢軸」とアメリカに名指しされるイランに観光客は少ない。ガイドの仕事は一回しかしていないという。イラン政府の鎖国的な政策に対して、マジドさんはよく不満を述べていた。子どもが生まれて、お金も必要になってきたのに、物価は上がる一方で生活は楽ではないと繰り返していた。
 

鉱脈を掘り当てろ

 

 その後もたびたび、インフレで生活が厳しいというメールがマジドさんから来ていた。電話代が払えなくなって、固定電話は解約して、携帯だけになったという連絡もきた。生活だいじょうぶなのかなあ、と思っている2011年末に、「Inaka no kozan no shigoto de isogashi kute mail o miru koto deki nakute suimasen ne(田舎のコウザンの仕事で忙しくてメールをみることができなくて、すみませんね)」というメールが届いた。「kozan」とは鉱山のことだとしたら、何をしているのだろう。マジドさんは日本では肉体労働に従事していたけれど、イランで同じ仕事をやるつもりはまったくなかった。だから鉱山労働者になるはずはない。日本の会社の通訳の仕事でもあったのだろうか。しばらく前に日本企業がイランの石油採掘に進出するという話があったが、鉱山採掘もかな、と勝手な想像をしていた。
 2012年末、ふたたび、「Kozan no tame ni yama ni takusan ikimasu. Furasshu raito (Flash light) hoshi, dekireba hoso nagai mono daitai 30-35 cm no judenki no seihin(コウザンのために山に沢山行きます。フラッシュライトほしい、できれば細長いもの、大体30-35センチの充電器の製品)」というメールが来た。
 鉱山で働いていて充電式の懐中電灯が欲しいとはどういうことか。通訳として坑道にまで入っていくということなのだろうか。まさか鉱山労働者になったのだろうか。しかしそれなら「30センチの細長い懐中電灯」ではなく、ヘッドライトが必要なはずだ。そんなことよりマジドさんが鉱山労働者になるとは思えない。それとも、いよいよそこまで生活が苦しくなったのか。
 心配になって電話をかけたが、やはり鉱山で働いているのだという。「コーヒーとカップラーメンも持って来てね」と追加でお土産を頼まれて、鉱山労働者なのかどうかは確認できないまま、電話を切った。謎が解決しないまま、2013年2月にふたたびイランを訪れた。空港に迎えに来てくれたマジドさんに、さっそく仕事の内容をたずねると、どうやら「鉱石」を探しているようだった。家に到着してからも、ビニール袋に詰めた石を見せてくれ、その石を宝石の鑑定に使うような拡大鏡でのぞき込んでいる。シリーンさんの母レイラさんは、石を眺めるマジドさんを、心配そうな表情で見つめている。
 マジドさんはとうとう山師になってしまった。6歳になる娘に「パパはどうして仕事しないの、ママが年とっちゃうから仕事して」といわれるんだよ、と彼は楽しそうに語る。さきほどのレイラさんの表情からして、おそらく親戚の女性たちは、日本から戻って10年以上たつが、なかなか仕事らしい仕事をしないマジドさんのことを話題にしているのではないだろうか。そしてシリーンさんが、「心配で年とっちゃうわ」といっているのを、娘はきいていたのだろう。
 マジドさんは、今の政府ではイランの未来は暗い、「奥さんと子どもがいなければ、日本に行っちゃうんだけどな」と非現実的なことを言う。マジドさんのもっと現実的な計画は、シリーンさんの兄であるデカップさんの日本出稼ぎである。デカップさんはなかなか商才があり、自宅の地下をフィットネスクラブにしたり、ラマダン期間中のスープを家族総出で大量につくって1ヶ月で半年分の稼ぎを得たり、最近はフィットネスをやめてアケメネス朝風のカフェを自宅地下に開いたばかりである。料理の腕はかなりのものである。手製の密造ワインもなかなかである。デカップさんの日本出稼ぎが実現したら、マジドさんも家族とともに何とか日本に行きたいという。しかし、最大の問題は、デカップさんは徴兵に行かなかったため、べらぼうなお金を積まねばパスポートをとれないことだ。前途多難である。
 
 
 
 
1: 滞日ムスリム移民の来日から滞日中の生活実態、帰国後の変化に関して筆者はフィールドワークを続けており、樋口直人・稲葉奈々子・丹野清人・福田友子・岡井宏文の共著による単行本『国境を越える-滞日ムスリム移民の社会学』(青弓社、2007年)はその成果のひとつである。
 
2: イスラム教の作法に従って処理された牛肉や鶏肉など。トンカツなど豚肉やアルコールの飲食は禁じられている。