ヒューライツ大阪は
国際人権情報の
交流ハブをめざします
国際人権ひろば No.108(2013年03月発行号)
人権の潮流
「民族共生の象徴となる空間」構想の憲法的意義
落合 研一(おちあい けんいち)
北海道大学アイヌ・先住民研究センター
象徴空間構想が提言されるまでの経緯
2007年、国連総会において「先住民族の権利に関する国連宣言」が採択され、翌年には日本でも「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が衆参両院の満場一致で採択された。そこで政府は、内閣官房長官の諮問機関として「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」を設置し、翌年には、同懇談会の報告書を受け、アイヌの人々の意見等を踏まえつつ総合的かつ効果的なアイヌ政策を推進するため、内閣官房長官を座長とする「アイヌ政策推進会議」を設置した。
有識者懇談会の報告書は、「国の政策として近代化を進めた結果、アイヌの文化に深刻な打撃を与えたという歴史的経緯を踏まえ、国には先住民族であるアイヌの文化の復興に配慮すべき強い責任がある」として、言語、音楽、舞踊、工芸等だけでなく、「民族固有の生活様式の総体」という「広義のアイヌの文化」を復興させるよう求めている。そして、具体的な政策として、アイヌの歴史、文化、現状等に関する教育や啓発、アイヌ語やアイヌ文化の振興、アイヌ文化の継承等に必要な土地・資源の利活用、アイヌの伝統工芸品の販路拡大をはじめとする産業振興、北海道外に居住するアイヌの人々も対象とした生活向上等に係る施策の他に、同報告書のコンセプト全体を体現する「扇の要」となるものとして、「民族共生の象徴となる空間」の整備を提言している。
象徴空間構想の目的と内容
アイヌ政策推進会議は、作業部会を設け、象徴空間について具体的な検討を進めた。作業部会の報告書によれば、象徴空間は、アイヌの歴史や文化等に関する国民の理解を促進するとともに、アイヌ文化の実践の場を確保し、将来への継承を確実なものとするための拠点、さらに、新たなアイヌ文化の創造や発展に繋げるための拠点として整備される。具体的には、教育・研究・展示等を行う博物館等の文化施設を核とし、伝統的舞踊や音楽を公演できる文化交流施設、自然と共生してきたアイヌ文化の特性を踏まえ、豊かな自然を体感し、伝統的漁法等を体験できるようなエリア等を備えた空間を整備していくという。このような構想を実現するためには、広大で豊かな自然環境があることはもちろん、地域のアイヌの人々が自主的に伝統的文化の実践や伝承に取り組んでいること、地域の住民や自治体等の協力を得られやすいこと、そして人々が訪れやすい地域であること等の条件をクリアしなければならないが、これらの条件にもっとも適合した地域として、新千歳空港から有料道路を利用して1時間ほど南にある白老町が選定された
1。
しかし、このような象徴空間構想については、国連宣言に記された先住民族の権利の内容と大きくかけ離れている、といった批判も少なくない。
先住民族の権利と憲法の保障する権利
「先住民族の権利に関する国連宣言」は、1982年に「先住民作業部会」が設置されてから、20年以上もの年月を経てようやく採択されたものである。先住民作業部会には、アイヌ民族をはじめとする各国の先住民族がオブザーバーとして参加しており、日本政府もその採択に賛成していることから、アイヌ政策を推進するにあたり同宣言をできる限り尊重すべきことはいうまでもない。有識者懇談会の報告書も、「国連宣言は、先住民族と国家にとって貴重な成果であり、法的拘束力はないものの、先住民族に係る政策のあり方の一般的な国際指針としての意義は大きく、十分に尊重されなければならない」としている。
しかし、国連宣言に記された46か条におよぶ権利には、先住民族に属する個人のみでなく、先住民族という集団を享有主体とするもの等、憲法の保障する権利との整合性について慎重に検討すべきものも含まれている。
日本の憲法学において、「人権」は、人間が人間であることのみに基づいて(固有性)、人種・性別・身分等に関係なく、すべての人間が当然に享有する権利であって(普遍性)、国家権力によって侵害されないもの(不可侵性)と理解されている。そして、「人間が社会を構成する自律的な個人として自由と生存を確保し、その尊厳性を維持するため、それに必要な一定の権利が当然に人間に固有するものであることを前提として認め、そのように憲法以前に成立していると考えられる権利を憲法が実定的な法的権利として確認したもの」
2が「憲法の保障する権利」である、と説いてきた。このように、憲法の保障する権利は、自律的な個人がそれぞれの理性的な判断に基づいて自由に活動、あるいは生存するための前提条件なのだから、権利の主体となりうるのは個人である。
このような理解からすれば、国連宣言に記された権利は、①それが民族的属性に基づいて認められるものならば、憲法の保障する権利の固有性と、②先住民族あるいは先住民だけに保障されるものならば、同権利の普遍性と、③先住民族という集団をも権利主体とするものならば、同権利の享有主体が個人のみであることと矛盾することになる。
国連宣言に記された権利にはこのような課題がある以上、内閣官房長官の諮問機関である有識者懇談会が、憲法の保障する権利との整合的な説明を確立しないまま、国連宣言に記された権利のみに基づくアイヌ政策を提言し、政府の機関である推進会議が、それをそのまま具体化するわけにはいかない。
もっとも、有識者懇談会や推進会議のメンバーでない人々が、国連宣言に権利が明記されたことをもって、アイヌ民族にも同様の権利がある、と主張するのは自由である。たしかに、憲法が成立してから、国内において、国民のみに適用されるにすぎない「憲法の保障する権利」によって、普遍的な人権、あるいは先住民族の権利をめぐる国際的な議論が拘束されるべきいわれはない
3。
権利保障システムにおける国民理解の重要性
しかし、権利を実際に保障するには、そのためのシステムが必要なのであって、いずれの権利であれ、そのシステムの限界内で保障されるにすぎない。日本の権利保障システムを定めている日本国憲法は、様々な政治的課題に関する国会の決定が憲法の保障する権利を侵害しないことを前提としつつ、「わたしの権利」が侵害されているという訴えがあった場合に限り裁判所の審査を認めている。そして、「わたしの権利」が憲法の保障する権利であり、かつそれが侵害されているといえるならば、国会の決定は憲法違反だということになる。国会の決定、すなわち国民の大半が支持している決定であっても、裁判所が憲法の保障する権利を侵害していると判断すれば、その効力が「わたし」にはおよばなくなるのだから、やはり権利には威力があると思われるかもしれない。しかし、憲法の保障する権利でさえ、ほとんどの国民の支持を失えば、条件はきわめて厳しいものの、憲法の改正によってそれが保障されなくなる可能性もないわけではない。その意味では、憲法の保障する権利の威力を担保しているのは、国会の決定を支持している人々であっても異論を差し挟む余地のないような権利の普遍性、より直截にいえば、ほとんどの国民がその権利を重要なものだと認めているという事実である。ここに権利保障システムの限界がある。
したがって、このことを踏まえることなく、アイヌ民族には国連宣言に記された権利と同様の「権利がある」と主張することが、アイヌ政策に国連宣言の内容をより十全に反映させる近道だというならば、それは、権利に対するナイーブな期待というものだろう。
残念ながら、ほとんどの国民は、アイヌ民族の歴史や現状に関する知識をもっていない。このような国民に、アイヌ民族には権利がある、といってもはじまらない。ほとんどの国民がアイヌではなく、また、アイヌ民族に関する知識をもっていない以上、そのような国民にアイヌ民族の歴史や現状に関する知識を共有してもらい、なぜアイヌ政策が必要なのかを理解してもらうプロセスは、きわめて重要である。アイヌ政策推進会議は、アイヌの歴史、伝統、現状等を国民に正しく理解してもらうこと、ひいてはアイヌ民族やアイヌ文化が存在する価値を国民に認識してもらうことを重視している。象徴空間は、そのための拠点として整備されるという。このような象徴空間構想は、国連宣言を十分に尊重するための必要条件ともいいうるのであって、国連宣言の内容からかけ離れているものではないように思われる。
象徴空間が整備される白老町のポロト湖畔
1:アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会の報告書は、アイヌ政策推進会議のホームページ(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainu/dai10/siryou1.pdf)からダウンロードできる。また、「民族共生の象徴となる空間」の具体的構想については、アイヌ政策推進会議のホームページ(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainusuishin/symbolic_space.html)、および北海道大学アイヌ・先住民研究センターのニューズレター1号(http://www.cais.hokudai.ac.jp/wp-content/uploads/2012/03/newsletter_1.pdf )に詳しい情報が掲載されている。
2:芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法〔第5版〕』(岩波書店・2011年)82頁。
3:石川健治「人権論の視座転換-あるいは「身分」の構造転換」ジュリストNo.1222(有斐閣・2002年)2頁以下。