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国際人権ひろば No.107(2013年01月発行号)
特集 人権ええやんか
同性愛者をめぐる状況の"むずかしさ"
堀江 有里(ほりえ ゆり)
信仰とセクシュアリティを考えるキリスト者の会・代表、日本基督教団・牧師
“楽習”はむずかしい
生真面目に堅苦しい話をすることは、多くの人たちにとって魅力的なものには映らないようだ。軽快に楽しく、笑いながら話ができるほうがウケがよい。真剣に考えれば、とてもむずかしく、暗い話題にならざるをえないテーマであれば、なおさら、だ。だからこそ、人権について“楽しく”“学ぼう”とすることは、なかなかにむずかしい。抽象的な「人権」という概念や、自分とは遠いところにあるものについては“楽しく”語ることもできるのかもしれない。でも誰かにとっては遠いものであっても、ほかの誰かにとってはとても身近なものだったりするとき、むずかしさは増大する。そこに流れる雰囲気を感じる感覚は、人によって、大きく異なるからだ。 先日、ある集会でこんな発言があった。「男同士の同性愛よりも女同士のほうが受け入れやすいってのもありますよね。そもそも男はスケベな存在ですから、女同士の見た目のほうがきれいやし」。
考えてみれば、似たような発言には、これまでにも出会ってきたことがある。がしかし、この日は、いつもと様子がちがった。なぜなら、「人権」について語ろうという集会だったから、油断していたのだ。性的少数者については、日本政府ですらも、一応、人権問題のひとつの課題として公式文書に言及することが増えているし、ある程度は理解が共有できていると思い込んでいたわけで。しかし、そうでもないことを実感した瞬間でもあった。咄嗟に想定外なことが起こったとき、目の前の出来事をうまくつかみとることができないことがある。対処できない自分をとても無力な存在であると感じる瞬間でもある。
そう言葉にしていくには、それなりに時間が必要だった。もやもやした気持ちを抱えながら、自宅に戻り、あれやこれやと考えているうちに、あの居心地の悪さって、何だったのだろうかとしばらくおさまりどころのない気持ち悪さが残っていたのだ。結局、その場では言葉にできなかった違和感の所在がぼんやりと浮かび上がってきた。そう。よく宴会の席で出てくる冗談に対して反論しづらいのと似ているんだな、と。「おかしい」と思っても、即座に反論できなくて、なかったことにしたい、消えてしまいたい、という思いをもってしまう、あの瞬間に。頭のなかで、自分にこう言い聞かせるのだ――“せっかく、みんなが楽しんでいるところに水を差してはいけない。取るに足らないことなのだ。誰も差別しようなんて思ってないんだから、怒ってはいけない! 善意で出てきた言葉に反論したら、嫌われる! はい、笑顔!” 久々に、そんなふうに言い聞かせている自分を発見したことを思い返しつつ、無力感がまた身体感覚としてよみがえってきた。
「同性愛者」って誰のこと?
さて、先の発言、いったい何が問題なの?と思われる方もきっと少なくないのではないだろうか。実際、あの場にいた人たちからも反論も異論もなかった。先の発言には二つの問題がある。
ひとつめには、「同性愛者」という言葉を聞いて、「同性同士の性関係」をイメージするという偏見だ。1990年代に、同性愛者の団体が東京都の施設を利用するにあたって、宿泊拒否を受けた事件があり、訴訟になった。そこでも東京都が同性愛者の宿泊利用を拒否した理由のひとつとして主張したことは、同性愛者には「内在する行為」がある、ということだった。同性同士で同室に宿泊すると性行為が行われる可能性があるから、それは「青少年の育成」にとって悪影響を及ぼす、というのが、当時の東京都の主張だ。結果的に、東京都の主張は退けられ、利用拒否は不当だとして同性愛者団体が勝訴している(風間孝・河口和也、2010、『同性愛と異性愛』岩波新書)。
「同性愛者である」という、その存在とか属性とかをただ単に“表明”することが、受け手にとって「同性と性行為する」という行為の問題として解釈される。異性愛者であれば、すぐさま、異性と性行為をする人、というイメージが喚起されるわけではないのに、同性愛者は表明した途端に、性的な存在だと勝手に決めつけられてしまう。まさに、それは偏見でしかないのに。
ふたつめには、それと関連して、レズビアン(女性同性愛者)に対するイメージの問題がある。同じく同性愛者としてくくられることの多いゲイ男性とレズビアンだが、決定的に異なることがある。それは、やはり、レズビアンが女性であることによって生み出されている偏見であろう。
「レズビアン」という言葉――もしくは差別的な言葉として機能する「レズ」という言葉――が、もっとも使われている頻度が高いのはポルノグラフィであろう。動画や画像など、女性同士の性的行為が、異性愛男性によって作られて、異性愛男性によって消費されていく。普段、レズビアンとして生きていると、そのような出来事に出会うことがほとんどなく、わたし自身、どうも麻痺してしまっているようだ。しかし、「女性同士のほうが受け入れやすい」という言葉に現実を知らされる。かつて、レズビアンのライターである掛札悠子は、このようなポルノグラフィのイメージが蔓延しているから、実際に、レズビアンが自分自身をレズビアンとして名づけ、そして誰かとつながっていくことがむずかしいのだと指摘していた(掛札悠子、1992、『「レズビアン」である、ということ』河出書房新社)。
ポルノグラフィが生み出すレズビアンへの偏見は、レズビアンとして表明することのむずかしさを生み出しつづけている。そして、お互いにつながっていくことを阻害する。結局は存在として認識されない、という状況を生み出しつづけていくこととなる。
同性愛者が“当たり前”に生きることのできない社会が、こうやって育まれている。
楽しく笑い飛ばせすことができる日に向けて
そもそも同性愛者は、“笑い”の対象として認識されてきた。あらためて、そんなことを考えてみる。いまも、マスメディアでは、同性愛者に対する揶揄や嘲笑が絶えない。
たとえば、「オネエ」キャラクターがマスメディアでも頻出するようになって、性の多様性が日本でも認められるようになってきたという声を聞く。しかし、むしろ、逆ではないだろうか、と思うことがある。「オネエ」は、一般的だと思われている「男らしさ」から外れたゲイ男性(体も心も男の人たち)と、男性から女性に移行したり、女性の装いをしたりするトランスジェンダー(性別越境をする人たち)とが混同された考え方を生み出している。また何よりもその活躍の場は、バラエティ番組(笑いの対象!)が中心でもある。さらに付け加えれば、トランスジェンダーのうち、「男→女」パターンの人たちは登場しても、逆に「女→男」パターンの人たちは登場しない。ここにもやはり偏りがあるのだ。
マジョリティが“楽しく”“学ぼう”とするとき、生きている人間がいる、ということが忘れられることがある。当たり前のことなのだけれど、空気を吸って、吐いて、ごはんを食べて、眠って――そんな日常生活を送っている人間がいることを。
まだ、同性愛者をめぐる状況を“楽習”する時代は、この日本には訪れていないのかもしれない。その日が来ることを願いつつ、少しずつでもあゆみを進めたいと、あらためて思う。