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国際人権ひろば No.87(2009年09月発行号)

人権さまざま

おいしい水

白石 理 (しらいし おさむ)
ヒューライツ大阪 所長

経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約
第十一条
1 この規約の締約国は、自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準についての並びに生活条件の不断の改善についてのすべての者の権利を認める。...

第十二条
1 この規約の締約国は、すべての者が到達可能な最高水準の身体及び精神の健康を享受する権利を有することを認める。
2 この規約の締約国が1の権利の完全な実現を達成するためにとる措置には、次のことに必要な措置を含む。
(b) 環境衛生及び産業衛生のあらゆる状態の改善


 子どもの頃の思い出話である。毎年夏休みになると母の里で何日かを過ごした。母の里は谷あいの村にあった。毎日午後子どもたちは山の間を流れる川で時を忘れて遊んだ。きれいな水がいつも流れていた。ある朝早く祖父について山に入った。祖父は山仕事、私は、トンボ、蝶、カブトムシなどを探して数時間を過ごした。山は静かである。大気はひんやりして、おいしかった。空気にもおいしい、まずいがあることをこのときに知った。ひと休みする祖父について湧き水が出る場所に行った。「ここの水はおいしいぞ」そう言われて手ですくって飲んでみた。ほんとうにおいしかった。「おいしい」という私に祖父は、「蛇、とかげ、たぬき、いのしし、山の動物はここに水を飲みに来るんじゃ」と私をからかった。祖父のこととこのおいしい水が重なって私の記憶に残った。

 時がたって、川の上流に観光施設が出来た。川が汚れ子どもたちはもう川で遊ばなくなった。その後観光施設のもっと上流に貯水ダムができた。川にはほんの少ししか水が流れなくなった。

 わたしはやがて大学生となって都会に住むようになった。水道の水は殺菌剤のにおいが強くまずかった。同じように透き通ってきれいな水でも子どもの頃飲んだあの湧き水とは似て非なるもの、汚れた水を飲める水道水にするために不純物を取り除き、殺菌をした水である。

 日本社会が「経済成長」に夢中になっている間に、大気汚染、河川の汚染、海の汚染など、自然の破壊が進み、人々の健康まで損なわれる状態になった。公害である。そうして人々は何十年もかかって環境保全の大切さを学んだ。大変な痛みと犠牲を伴った学びであった。環境保護は今では政府、行政ばかりではなく、企業や団体そして個人の「社会的責任」としてすこしずつではあるが意識されるようになってきた。持続可能型社会や循環型社会をめざす施策や活動も始まった。

 世界の現状はどうか。最近イタリアで開かれた主要20カ国の首脳の会合で二酸化炭素ガスの排出削減が話し合われたが、各国の思惑がすれちがい結果を出すことは出来なかった。気候変動に対処するためには世界レベルでの協力が欠かせない。いまのところ環境対策については総論では賛成、行動をとる段階では合意はできていない。

 2000年国連ミレニアムサミットで採択された宣言をもとに作られたミレニアム開発目標のひとつに「環境の持続可能性の確保」がある。そこではひとつのターゲットとして「2015年までに、安全な飲料水と基礎的な衛生設備を継続的に利用できない人々の割合を半減させる」という。背景にある世界の現実は、全人口の3分の2には安全な飲料水を得ることが難しいのである。アフリカのある国では多くの家族が毎日数時間をかけて水を得るために歩くという。汲んでくる水はわかしてからしか飲めない。子どもの死亡率の高さも劣悪な水によるといわれる。

 人権の国際基準では、健康に対する権利を人権としている。この権利には単に病気に対する治療、公衆衛生ばかりではなく、安全な飲料水、安全で栄養価のある食料、人の居住にふさわしい住宅、心身の健康維持にふさわしい環境、職場での衛生と安全なども含まれるとする。安全な飲料水を得る権利、良い環境に対する権利が人権とされるゆえんである。

 よい環境を護り、取り戻すための行政施策や民間の運動にはこれまで「人を大切に」という人権の視点が無意識的に取り入れられていたこともあった。しかし環境問題に取り組む際に人権の視点を意識的に議論するようになったのはごく最近のことではないか。環境と人権をそれぞれ別の分野のものとしてその接点を探るというのではなく、よい環境を求めること自体が人権であるというアプローチが環境問題や課題に取り組む行政施策、運動にとって大切である。

 最近、日本でも売られているミネラルウォーター「エビアン水」の町に行った。スイスのジュネーブから車でレマン湖に沿ってフランスに入り30分余りのところにある静かな保養地である。アルプスの山をくぐって湧き水が出てくる。だれでも自由に飲み、水筒やペットボトルに汲んで持ち帰ることができる。自然の恵みである。この泉から出る水を一口飲んで、何十年も前に祖父と一緒に飲んだおいしい湧き水の思い出がよみがえった。