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国際人権ひろば No.83(2009年01月発行号)

国際化と人権

子どもと若者の性搾取に反対する第3回世界会議に参加して -国際人権運動としての注目と評価を-

園崎 寿子(そのざき としこ) エクパット・ジャパン・関西共同代表

リオ会議の成功から問題提起へ


 2008年11月25日から28日までブラジルのリオデジャネイロで、子どもと若者の性搾取に反対する第3回世界会議(World Congress Against the Sexual Exploitation of Children and Adolescents)が開催され、国際機関、政府、NGO、子ども若者代表、企業関係者など約3000人が参加した。5つのパネル(全体会)と、数十のワークショップ(分科会)が開催され、子どもの性搾取の現実と近年の動向、各地の取り組み、課題などに関して議論を深め、リオ宣言・行動計画にまとめられていった。
 私たちエクパット・ジャパン・関西のメンバーは、この会議に参加して、たくさんの人たちと出会い、元気をもらって帰ってきた。日本での子どもや若者の性虐待、性搾取、参加、さらには広く人権の取り組みにとっても参考になるものが多い。残念なことに、日本に帰ってみて、この会議に関する報道が限定的だったこと、全体像を伝えるにはほど遠いことを実感している。
 この会議をもたらした最大の原動力は、国際エクパットにあったといってよい。小さな市民運動として始まった活動が、なぜこのように広範な人々を惹きつけ、幅広い領域に渡る成果を生みつつあるのか、国際人権に関わっている人たちにぜひ検証していただきたい。そのような問題意識を抱きつつ、会議や運動について報告する。(子ども参加については『解放教育』3月号に、またもう少し詳しい全般的報告が『部落解放』2月号に掲載)

エクパットキャンペーンから世界会議へ


 この会議の出発点は1991年に始まったエクパット「アジア観光における子ども買春をなくそう国際キャンペーン(ECPAT: International Campaign to End Child Prostitution in Asian Tourism)である。アジア各国で報告された、外国人観光客などによる子ども買春による被害を、国際協力によって解決していこうとした。この運動が広がり、国際機関や各国政府、観光業界などを動かして、1996年にスウェーデン政府、ユニセフ、エクパットなどが主催してストックホルムで第1回子どもの商業的性的搾取反対世界会議が開催された。このころから、子ども買春だけでなく、子どもポルノや性目的の人身売買を含む「子どもの商業的性的搾取」、すなわち金銭などを介しておとなが子どもを性的に利用することという概念が出されるようになった。この後、2001年には日本政府、ユニセフ、エクパットなどが主催して第2回子どもの商業的性的搾取反対世界会議(横浜会議)が開催された。このような動きの中で、各国政府は実態把握や必要な立法措置、国内行動計画策定を求められ、国際機関やNGOの中でもこの問題は大きなテーマとなっていった。観光業界をはじめ、企業も積極的な取り組みを見せるようになっていった。約1年前にブラジル政府が第3回世界会議開催国となることを発表し、今回のリオ会議が実現したのである。

エクパット運動の成果


 エクパット運動は、この20年近くの間に様々な領域で成果を生み出している。この20年間、これほどの成果を上げた国際運動は少ないのではないか。議論の手がかりとして、特に成果を上げたいくつかの領域を紹介したい。

① 国際条約の採択と締結
 エクパット運動は、いくつかの国際条約を作らせることに成功または大きく貢献した。1999年から2000年に3つの重要な国際条約ができた。「最悪の形態の児童労働の禁止および撲滅のための即時的行動に関するILO第182号条約」「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人(特に女性及び児童)の取引を防止し、処罰するための議定書」「児童の売買、売買春および、子どもポルノグラフィーに関する子どもの権利条約の選択議定書」である。
 エクパットキャンペーンが始まった1990年頃、子ども買春や子どもポルノは、社会問題として認知されていなかった。いわば、「無」から始まって「国際条約」までつながったのである。1989年に採択された「子どもの権利条約」を最大限生かしつつ、事態を前進させたということができる。

② 子どもと若者の参加に関する実践と理論
 この会議は、第1回世界会議以後一貫して子どもと若者の参加を重視してきた。とりわけ第3回のリオ会議では、子どもや若者がおとなと対等な立場で参加することが追求された。
 子どもの参加については、ロジャー・ハートが1977年に「子ども参加のはしご」を提案した。実際に「お飾り」から「対等な参加」に変えていくためには、様々な原則の整理や手続き上の工夫が不可欠だった。この世界会議が3回にわたって追求してきた子ども若者参加のプロセスでは、それが具体化され、深められてきた。(詳しくは、雑誌『解放教育』2009年3月号を参照。)
 子どもの権利条約は生存・発達・防御・参加という四本柱で構成されている。エクパット運動はそのすべてを大切にしつつ、とりわけ子どもや若者参加の理論と実践を大きく前進させた。子どもの権利条約の思想を体現した運動の一つだったといってよいのではないか。

③「子どもポルノ」に関わる議論の進展
 リオ会議では、従来使われてきた「子どもポルノ(Child Pornography)」という言い方に変わって「子どもの虐待の映像(Child Abuse Images)」という言葉が前に出された。もともと、子どもポルノが問題とされたのは、それが特定の子どもへの虐待の記録だからである。その記録が出回れば、被害者はいつまでもその被害に苦しめられることになる。ここから出発して、「性的搾取;Sexual Exploitation」と「性的虐待;Sexual Abuse」との概念整理がさらに必要だという議論もあった。たとえば、子どもの水着姿の写真が、本人の知らないうちに出回っていたような場合、それは子どもの「虐待」なのか、「搾取」なのかということである。さらに、マンガを含むバーチャルなものなど、実在の個人を虐待した記録でなかったとしても、「子ども全体への犯罪である」ととらえる議論があった。「子どもという存在にとって欠くことができないもの;essence of childhood」が侵されたことを問題にするというのである。人権の主体は、もともと個人とされてきた。しかし、個人の人権を守るためには、集団としての人権という発想が必要だという議論が出てきた。先住民の権利などはその例であろう。では子どもの場合はどうなのか。

④議会・政府・警察・企業・市民団体など幅広い機関の巻き込み
 エクパットキャンペーンは、当初より政府や企業を動かそうとしてきた。立法機関としての国会についてはすでに述べた。警察には、「南」の国で加害者となった「北」の国の自国民の捜査、国外犯処罰にかかわって行動を要請してきた。初期の人権運動が政府と対立する性格を強く持っていたことを考えると、エクパットキャンペーンは当初より第三世代の人権という発想を強く持っていたということができよう。
 企業については、観光業を中心に第1回世界会議から参加し、第3回ではIT産業も含めさまざまな企業が参加していた。市民団体としてもかなり幅広いグループを巻き込んできた。日本国内でも、子どもの権利に取り組んでいる団体の多くがエクパットキャンペーンや世界会議に加わるようになった。

成果をもたらしたものは何か?


 以上のような成果につながった原因はどこにあるのだろうか。この点の分析を呼びかけたいのだが、私たちなりの考えを述べておきたい。  一つは、被害の実態を常に土台に据えてきたことである。二つには、「南」の国と「北」の国にいる個人や団体を結びつける論理や具体的な課題を提案し続けてきたことではないか。三つには、様々な機関や階層を巻き込む戦略を積極的に追求したことかもしれない。
 最終日にはリオ宣言の草案が発表された。宣言の最終的な採択は時間切れで間に合わず、1月間、意見をネット上などで受け付け確定する流れとなった。問題を抱えた国の一つとして、日本の今後にも注目が集まっている。世界からもらった元気をもとに、私たちも今後の取り組みを考えたい。