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国際人権ひろば No.81(2008年09月発行号)

特集・世界人権宣言60周年によせて Part 3

世界人権宣言から学ぶ

米田 眞澄(よねだ ますみ) 
神戸女学院大学 准教授

今も昔もかわらない「発見」と「疑問」


 世界人権宣言が採択されて今年で60年を迎える。世界人権宣言について60年を振り返るには人生経験も知識も足りないので、自分自身との関わりの中から世界人権宣言からの学びについて紙面で語ることにしたい。まず私が大学に入った頃と今年大学に入った学生たちとの世界人権宣言をめぐる共通点から話を始めようと思う。
 大学に入ったばかりの学生に「世界人権宣言について知っている人はどれだけいますか。」と問いかけると、何人かの学生が「名前ぐらいは」と言いながら遠慮がちに手を挙げてくれる。それは、わたしにとっては毎年変わらない光景であるとともに、自分が大学生になったばかりの頃を思い出させてもくれる。実は、私も大学入学当初は今の新入生と同じ状況だったからだ。その頃の私や今の大学新入生が世界人権宣言について知っているのは、「国連が発足して間もなく採択された」ということくらいである。
 私が世界人権宣言について学んだのは大学に入ってからである。そして、今も学生の多くはそうであるようだ。私は、世界人権宣言によって人権についての世界共通の基準がはじめてつくられたことに驚いたが、より驚いたのは「人権」は、さまざまな権利から成り立っているということだった。そんな基本的なことさえも私は知らなかった。それまで私は人権とは「差別しないこと」だと漠然と思っていた。
 高校の教科書あるいは教科書と併用する資料集には、せいぜい世界人権宣言の前文と1条の条文ぐらいしか載っていない。ところが世界人権宣言の条文をはじめて読んでみると、2条1項には「すべて人は、... いかなる事由による差別を受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。」とあり、3条以下にさまざまな権利が書かれていることがわかる。今の学生たちも、世界人権宣言の条文をはじめて読んで、同じ「発見」をして驚いてくれる。
 私は、毎回講義の終わりにコメントカードを配り、講義内容についての質問や意見などを学生に書いてもらう。世界人権宣言がさまざまな権利を掲げているのを一緒に見た後に、必ずといっていいほどコメントカードに書いてくれる意見として「今の私たちにとっては当たり前のようなこと、たとえば奴隷にされない権利だとか、法の下で人として認められる権利だとかまで書かれてあるのに最初はびっくりしたが、よく考えてみると、今でもすべての人に保障されている権利が世界人権宣言の中にひとつでもあるのだろうかと疑問に思う。」というのがある。すべての人と国が達成すべき共通の基準として公布された世界人権宣言の内容は、いつになったら、その一つでも達成させることができるのだろうか。これも変わらぬ疑問であり課題である。このことは、世界人権宣言という文書が過去ではなく今を生きる文書である証でもある。


「疑問」から探求へ


 大学では疑問が出れば、それがテーマとなって探求が始まる。世界人権宣言の26条は教育を受ける権利について書いてある。26条はどの程度達成されているのだろうか。この疑問を出発点に、ある学生は「世界人権宣言は360以上の言語に翻訳されているが、世界には約3,000の言語があるといわれている。また世界中で簡単な読み書きができない15歳以上の人(非識字者)は7億8,100万人、学校に通えない子どもは7,700万人もいる。世界人権宣言は多くの権利で満ちているが、本当に人としての権利が必要な人のところには届いていないのではないだろうか。識字率を上げることは重要だが、読み書きできない人に人権について伝える絵本や劇などの開発も必要だ。さらに非識字者の3分の2が女性、学校に通えない子どもの60%が女児である。世界人権宣言が掲げる権利の享受を性別で見ると、どれだけ多くの国で女性は男性にくらべて人権から遠いところにいるかがわかる。」として、ジェンダーと開発に関心をもつようになった。
 また、世界人権宣言の14条は、迫害を免れるために他国に避難する権利について書いてあるが、この権利は認められているのだろうかと疑問をもった学生もいる。この学生は、高校の時に難民問題について学ぶ機会があったようで、世界中には多くの難民がいることや難民高等弁務官事務所の存在を知っていたが、日本も少ないながらも難民を受け入れていることは、大学で初めて知ったという。世界人権宣言の後につくられた国際人権規約には世界人権宣言14条が定める権利は見当たらない。難民条約は「難民」を定義し、難民がもつ権利や条約を結んだ国が難民に与える待遇について定めているが、「すべて人は、迫害を免れるために、他国に避難することを求め、かつ避難する権利を有する」という規定はない。学生のレポートは、「世界人権宣言14条は法的権利としては認められるに至っていないが、すべての人と国とが達成すべき共通の基準であることに変わりはない。」として、その達成のために国、国連などの国際機関、NGOそして一人一人がすべきことについて学生なりに意欲的に考察し提言した。


子どもたちに身近な問題から


 人権についてどんな学習を受けてきたかを学生に聞くと、一番多いのは、いじめについてである。今の子どもたちにとって「いじめ」は最も身近な人権問題であることがわかる。世界人権宣言から学ぶことはたくさんあるが、そのひとつに、2度にわたる世界大戦を経てやっと人権の共通基準をつくる必要性が認識されたことである。多くの尊い犠牲、過酷な経験を基礎に世界人権宣言はつくられた。そして今も世界人権宣言に掲げられた権利の達成が求められている。
 学生の話を聞くと小中高を通していじめに無縁だった人はいない。いじめられた経験をもつ学生もいれば、いじめられたくなくていじめの集団に加担した学生もいる。いじめがあるのを知っていたが矛先が自分に向くのを恐れて関わらないようにしていた学生もいる。いじめは過酷だ。いじめられて自殺に追い込まれるケースも少なくない。
 いじめは拷問のようなものだ。誰一人として拷問されていい人などいないように、いじめられてもいい子なんていない。いじめられている子は奴隷のようだ。誰一人として奴隷にされてもいい人などいないように、いじめられてもいい子なんていない。拷問も奴隷も人を心身ともに破壊する行為である。人間を破壊する行為である。だから拷問を受けない権利や奴隷にされない権利は「すべての人と国とが達成すべき基準」として世界人権宣言に掲げられている。いじめも同じではないだろうか。そうであれば、世界人権宣言にはないけれど「いじめられない権利」は今の子どもたちにとって守られるべき大切な人権の一つである。
 子どもたちはみんな「いじめられない権利」をもっている。そして今なお、その権利の達成が求められている。いじめは、いじめる子といじめられる子の間だけの問題だろうか。いじめがあるのを知りながら見て見ぬ振りをしている子には関係のないことだろうか。担任の教師や学校や保護者たちには関係のないことだろうか。地域や国には関係のないことだろうか。「いじめられない権利」の実現のために、私は、あなたは、教師は、学校は、保護者は、地域は、国は何をすべきなのだろうか。たとえば、子どもたちが自分たちの経験を基礎に意見を出し合って、権利の達成に向けた行動計画をつくるという取組を中学校や高校ですることは可能だろうか。もちろん、その行動計画は子どもたち自身の行動のみを問題とするのでは意味がない。人権の達成はすべての人と国に求められているからである。