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国際人権ひろば No.81(2008年09月発行号)

特集・世界人権宣言60周年によせて Part 5

平等というなら

宇田 有三(うだ ゆうぞう) 
フォトジャーナリスト

 8月初旬からビルマ(ミャンマー)入りしている。新しく建設されたネピドーへ首都移転後も、同国最大の都市であるラングーン(ヤンゴン)の下町で毎日を過ごす。深夜、ラングーンの町は静まりかえる。隣のビルのポンプが水をくみ上げるモーター音が、私の泊まっている部屋まで響く。雨季特有の湿った雨は、どうやらやんだようだ。夜、零時を過ぎてもパソコンのキーボードを叩き続ける。ちょっと危険な取材をした日は、数時間たっても興奮が冷めやらず、眠れなくなるからだ。深夜2時を過ぎても心は全く安まらない。もしかしたら、何時なんどき、当局者が国外退去を告げるためにホテルにやってくるかも知れない。取材者としてビルマに入ると、常に緊張を強いられる。
 安心して眠ることができる社会とは、なんと貴重なことなのか。生まれた地域と時代と社会が違うだけで、なんと違う世界なんだ。ビルマに入る度に、いつもそのことを痛感する。
 タンシュエ上級大将が独裁的な実権を握る東南アジア最後の軍事政権国家ビルマは、それこそ数え切れないほどの人権侵害が続いている。つい昨日入った情報では、ビルマ北部のカチン州で15歳の少女が国軍兵士に強かんされた後、身元が分からないように遺体を損壊された状態で発見されたという。両親は、怖れのあまり、警察に届けることさえ出来なかった。
 そんなビルマへ今朝(18日)、国連事務総長の特使であるガンバリ政治局長は、昨年10月から数えて4度目の訪問をしている。ガンバリ氏は、行き詰まったビルマの民主化をなんとかしようと、軍当局側のアウンチー少将と会合を持つ予定だ。だが、これまでに具体的な成果を何ひとつあげることなく、ビルマを後にしている。前回の訪問でガンバリ氏は、タンシュエ上級大将と面会すら出来なかった。サイクロン「ナルギス」惨禍後、国連高官の初訪問であるが、何かが動き出すのを予期するビルマ関係者はほとんどいない。


もう一つの「8888」


 私自身というと、今回のビルマ訪問の主な目的は、いわゆる「8888」の取材である。8月の国際ニュースのトップは、もちろん北京オリンピックである。世界中がこのオリンピックの開幕式に注目しているであろう。しかし、この8月8日は、「もう一つの8月8日」があることを忘れてはならないのだ。
 その8月8日とは、ビルマで1988年、前の独裁者ネウイン元大統領をその座から引きずり落とした民主化運動が最高潮に達した日である。ビルマの人は、20年前のこの日を記念して「8888(ビルマ語でシッ・レーロン=4つの8)」と呼ぶ。
 この8日、ビルマの反軍政と民主化に関心を持つ人は、世界のビルマ大使館や中国大使館前で抗議運動を起こした(中国は、ビルマ軍事政権を支える最大の支援国であるからだ)。だが、その抗議行動のニュースも、予想通り、オリンピック報道や勃発したグルジアとロシア紛争の国際ニュースにかき消されてしまった。
   さて、オリンピック開会の8日、ここビルマの様子はどうだったのか。20年前の8月8日、軍の兵士と市民がぶつかり合った「ミニゴンの交差点」に行ってみた。予想通り交差点周辺には、自動小銃を持った武装警官が激しい雨の中、静かに佇んでいた。一般の市民は、その姿を横目に、あくまでも日常生活を続けていた(ように感じた)。
 もちろん外国人が観光客としてビルマに入国したとしても、この8月8日の緊張感を感じることはできない。また、5月にイラワジ・デルタ地帯を襲ったサイクロン「ナルギス」からの復興を喧伝したい軍事政権は、その被害の実態を見ようとする外国人の入国を制限している。その入国制限は、一般の観光客へのビザ発給の制限という余波を引き起こしている。私の定宿もこの10日間、滞在客は私一人という有様である。雨季で、ただでさえ観光客が減る季節なのに、観光産業は大打撃を受けている。知人のツアーガイドは、生活が成り立たないと悲鳴をあげている。また、観光客の多くは、これまで4週間あった観光ビザの期間を3週間に減らされている(私はもっと短く制限された)。
 ラングーンからビルマ第2の都市マンダレーを経て、観光地のパガン(世界3大仏教遺跡の一つ)やインレー湖を巡ると、ちょうど3週間くらいで観光を終えることができる。軍政は、あくまでも、この国の影の部分を見ることなく、お金を落としてくれる外国人だけを歓迎しているのだ。

現地の人、外国人ができること


 通報義務があるビルマで、外国人による行動は、観光地を外れると目立ってしまい、身動きがとれない。そこで、この数年顕著になったのは、現地の人たちこそが、外国人の「偏った」フィルターを通さずに、自らの問題を世界に向けて発信し始めていることだ。デジタル機器の小型化と簡素化がそれに拍車をかけている。言葉を自由に操れない外国人がわざわざ取材に訪れるよりも、民主化を求めるビルマ人たちは、雑誌・インターネット・衛星放送を駆使し、現地の生情報を世界に発信し始めている。
 では、外国人が取材者として現地に入る意味はなくなったのか?私は、そうは思わない。ビルマのような強権的な独裁国家には、外国人でしか出来ない・見えない・感じざるを得ないことがまだまだあるからだ。たとえば、武装警官に近づく。彼らにカメラを向けるのには想像以上の勇気を必要とする。近づくだけで緊張感が高まる。ドキドキを通り越して、胸を締め付けられる。実際、彼ら武装警官や兵士たちは、いつでも恣意的に力を行使できるのだ。私は外国人だから思い切って写真撮影をできるが、実際に、直接的な被害を受ける現地の人が同じことをしようとすれば、その恐怖は計り知れない。
 インターネット専門のビルマニュース『ミジマ』(8月20日)によると、1988年と昨年の民主化デモに参加した元学生の話を伝えている。
 「(毎朝)目が覚める度に、昨日話をした友人と会えるかどうか、それとも友人が逮捕されるかも知れない、と感じている。また、私とその友人のどちらが最初に逮捕されてしまうか。何時彼らが来て、私を逮捕するのか、いつも恐怖の状態に置かれている」
 私は、時に、その恐怖をなんとか伝えたいと思っている。恐怖には、国籍も民族も性別も世代も関係ない、誰にも平等に与えられているはずだからだ。もし「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利とについて平等である」ならば、恐怖もまた平等に分かち合ってもいいのでは、と思う。ビルマに住んでいると、恐怖を感じない社会の存在なんてあるのかと思ってしまう。
 外国人は、直接的にビルマの恐怖社会に関与して変革することはできない。もし、私たちがそこから学ぶことがあるとすれば、もしかしたら一つ間違えば、日本もビルマのように、いつ何時、自由な発言を許されない社会になるのか、今まさにその瀬戸際にある、ということを考えさせる具体例が目の前にあるということだ。