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国際人権ひろば No.78(2008年03月発行号)

アジア・太平洋の窓

「国境を越えた恋愛」のその後-帰国後のイラン人を訪ねて

樋口 直人(ひぐち なおと) 徳島大学総合科学部教員

「外国人労働者の恋愛」のその後


 ここはテヘランの高級住宅地。セキュリティ完備、トイレが3つもある豪華マンションに目を丸くしていると、ナセル(以下、すべて仮名)は密輸品のウォッカと自家製のワインをすすめ、器用にナスのショウガ醤油を作ってくれた。ナセルの妻は日本人で、私たち共同研究グループはテヘランのバザール(街頭市場)で調査しているときに声をかけられ、図々しくも彼の家にお邪魔したのであった。
 1991~98年の7年間、ナセルは日本で働く「外国人労働者」だった。神奈川県の建設会社で働く間にスポーツセンターに通い、そこで知り合った女性と2年間交際していたという。彼が帰国する際、彼女をイランに連れてきて彼女が帰るとき、イランで生活しないかとプロポーズした。帰ってからのナセルは、兄が営む布地卸売の仕事に貯金を全額投資し、それがうまくいって今では日本で働いていたときより稼ぎはよい。異郷に妻を連れてきたのだから幸せにしたい、そう考えて一生懸命働いたという。
 「外国人労働者」が日本人と結婚するのは日本に住むのが目的なのだ、という偏見は根強く流通しているが、ナセルのような選択は決して例外ではない。日本人と結婚して日本に住むイラン人は2,000人以上になる一方、イラン人と結婚してイランで住む日本人も250人くらいにのぼるのだ。日本で外国人労働者が働くようになってから20年以上が経過するが、彼ら彼女らの多くは若年単身で渡日している。日本に住めばそこで仕事だけでなく恋もする。だが、その帰結はナセルのようなハッピーエンドばかりではない。以下で紹介するのは、日本で働いたイラン人男性たちが経験した恋愛とその帰結であるが、その多くはさまざまな障害に阻まれるのが実情なのである。

恋愛をめぐるさまざまな障害


 そもそもイラン人と聞いただけで「引いてしまう」日本人が多く、恋愛はおろか友人関係を築くのも容易ではない。サイードは日本人と友達になるために、自分をイタリア人だと言っていた。親しくなった頃、実はイラン人であることを打ち明けたとき、ある喫茶店のマスターは目を丸くして持っていた皿を取り落とした、とおかしそうに、そして懐かしそうに語ってくれた。だが、それでも私たちが聞き取りした120人のうちの一定割合は、女性との交際経験を持っていた。ただし、そのように苦労して日本人と友達、さらには恋人関係になっても、前途多難であることには変わりない。
 写真の男性アリは、福島県で3年間働く間、近所の女性と交際していた。小さな町で噂にならないように、デートをするときは福島の街中で待ち合わせて街歩きを楽しんだ。しかし、彼女の家族には家系図まで見せられて結婚をあきらめるよう諭されたという。結局彼は、イランの父親が亡くなったので帰国したが、成田を発つときも帰る安堵感より寂しさが先立って涙が出た。「アリと申しますが静子さんいらっしゃいますか」「ちょっとお待ちください」「お願いします」と、電話での受け答えを再現してくれたのが印象的だった。
 アリの場合、恋愛は短期間で明確に終ったから、帰国後もその経験を引きずることはない。だが、新潟で働いていたアサドは本気で結婚しようと思っていた。3年間同じ町に住む女性と付き合い、強制送還されないようにと雇用主が申し出て養子縁組までした。しかし、イランに住む両親から帰ってきてほしいと言われ、日本での生活をあきらめて帰国する際、相手の女性にイランで生活しないかとプロポーズしている。彼女も心が揺れて、来ると言ったり来ないと言ったりして2年が過ぎた。アリはずっと待っているのは堪えられないと、相手に電話して別れを告げてイランで見合い結婚したという。彼女とのことがはっきりするまでは働かないと決めていたので、イランで仕事を始めたのも帰国後2年たってのことであった。
 日本で10年間フィリピン人女性と同居したキャリムになると、話はさらに深刻になる。キャリムはずっと土木関連の仕事をしていたが、フィリピンパブに通って知り合ったフィリピン人女性を監禁状態から助け出し、10年間2人とも超過滞在のまま生活していた。ところが、ある朝仕事に出かけようとするときに入国管理局の係官がアパートに踏み込み、2人とも捕まってしまう。
 そしてキャリムはイランへ、相手の女性はフィリピンへと強制送還された。それからキャリムは、彼女がイラン行きのビザを取得できるようがんばったが、結局それもかなわず2人は離れ離れのまま二度と会うことはなかった。私がキャリムに会ったときには、帰国後半年しかたっていなかった。両親も亡くなってがらんとした家に1人住み、「寂しくて」とアルメニア人が密造したブランデーを毎日飲んでいるという。だが、その後キャリムは相手の呼び寄せをあきらめて親戚の紹介で結婚し、最近になって子どももできている。
 異教徒のフィリピン人が、言葉の通じない親戚の中でうまく付き合っていくのは大変であり、2人の間にそうした文化的な障壁があるのは間違いない(そもそも2人は日本語で会話していた)。だが、2人を引き裂いたのはまぎれもなく日本の入国管理制度である。当局からみればちっぽけな違反事例に過ぎなくても、当人にとっては一生に関わることだ。入管法に違反していることが10年間の同居生活をぶち壊す理由として正当なものか、打ちひしがれた当時のキャリムを見るにつけ、法の残酷さについて考えこまざるを得ない。
 今の日本では15組に1組が国際結婚であり、もはや珍しいことではないと言われるようになった。確かにかつてほど露骨な結婚差別は少なくなり、一定数の人は国際結婚を受け容れるようになったのかもしれない。しかし、「国境を越えた恋愛」の障害は差別ばかりではなく、今までみてきたような「外国に生活拠点を構える困難」「法的地位」「文化的な相違」などが付け加わることになる。
 イラン滞在中ずっと世話になったマジドは、失業してでも東京にいる恋人の近くに住もうとしていた。彼は宗教による縛りが嫌いで、気ままに暮せる日本が好きだったし、彼女も本当にいい人だったというが、相手の親との関係や自分の親の老後などを考えて帰国の途についた。彼女が前橋の実家に帰省したときにも、すぐ近くまで一緒に行きながら両親には会わなかった。さまざまな障害を考えて自主規制してしまったわけだが、こうして当人たちの意思を超えたところで終わらざるをえなかった恋愛も、外国人労働者が日本で積み重ねた経験の一部なのである。

「外国人労働者問題」とは何だったのか


 振り返ってみれば、1980年代後半に外国人労働者をめぐって「鎖国」「開国」を主張して大騒ぎしたのは何だったのだろうか。それから20年たった「その後」の状況がまったく顧みられない現状をみる限り、当時の論争はまったく身勝手な「労働力輸入」しか考えていなかったことがよくわかる。だが、これまで紹介した少数の事例からもわかるように、渡日した人たちは日本で働きつつ恋にときめき恋に破れ、さまざまな軌跡をたどっていったのだ。
 少子高齢化との関連で移民受け入れが本格化しようとする現在、当時の轍を踏まないためにも「外国人労働者問題」のその後を今こそたどる必要がある。熱しやすく冷めやすい世の中にあって、こうした忘れられてはいけない人々の記録を残すべく、6年前から滞日ムスリムの出身地に通って調査をしてきた。
 日本に定住した人の歩みも加えて、先日この調査をまとめた本を刊行した(樋口直人・稲葉奈々子・丹野清人・福田友子・岡井宏文『国境を越える?滞日ムスリム移民の社会学』青弓社、2007年、2100円)。同書では、日本での就労や出身地の状況、滞日ムスリムの宗教やビジネスについても報告しており、写真も豊富に入れてあるので関心のある方は一読していただければ幸いである。