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(特別寄稿)ミャンマー:何故あんな軍隊が出来たのか 民主主義復活への道を探る

ミャンマーへの草の根支援および在日ミャンマー人の支援に取り組む市民団体「ミャンマー関西」代表の猶原信男さんに寄稿いただきました。
 
猶原 信男(なおはら のぶお)
ミャンマー関西代表
はじめまして
 私は、日本とミャンマーの人々の友好を目的に活動する市民団体「ミャンマー関西」の代表を務めている。2014年以来、神戸市長田区に事務所を置き、兵庫県を中心に活動してきた。
主な活動は ①ミャンマーの子どもたちの支援、②日本在住のミャンマー人の生活支援全般、③留学生の生活支援などである。
 そして、2021年2月からは「軍事クーデター抗議行動」に力を注いでいる。①~③の活動については、別の機会に報告させて頂くこととして、ミャンマー国軍とクーデターについて私の考えを述べたい。
 
この国の不幸
現在のミャンマーの国の基礎を作ったのはイギリスだ。イギリスの植民地支配の延長にこの国がある。
シャン民族、アラカン民族をはじめとする少数民族は、それぞれの文化と歴史があり、独立した社会を形成していた。それをイギリスが武力で侵略し、無理やり一つの国にした。そこからこの国の不幸は始まっている。
日本軍もこの国に混乱を持ち込んだ。特務機関として南機関1を潜入させ、イギリス軍の混乱を企み、時にはアウンサン将軍らの軍事訓練を後押ししたり、ロヒンギャとビルマ軍の代理戦争を引き起こしたりした。
そしてビルマ戦線からインドのインパール攻略を目指してインパール作戦を遂行するなど、日本にはこの国を混乱させた責任の一端があることを肝に銘ずるべきである。
 
将軍とパンロン会議                                     
アウンサン将軍はイギリスからの独立調印直後、シャン、カチン、カレン、モンなど多くの民族をして統一のテーブルにつかせることに成功し、1947年に「パンロン会議」を開催した。会議では
    各民族の自治を尊重し
    統一国家(連邦国家)を建設することに同意した。
しかし、会議から間もなく将軍は暗殺された。将軍周辺の指導者層も拘束され、「新指導部」が実権を握った。
新指導部は志もビジョンも持ち合わせていない軍人集団であった。彼らは「パンロン会議」で決議された各民族の自治を無視し、「統一国家」建設のみを追求しながら、武力で国内を鎮圧していった。このやり方が、今の軍隊の基礎として形成されたのである。武力のみで国家を維持するのである。
その後も国軍の体質は変わっていない。
 
1988年運動の教訓
 「88世代」。ミャンマーの人々は数字のゴロ合わせを好む。
1988年に高揚した民主化運動、そして市民の敗北。その敗北から学生を中心にした運動の限界を認識し、市民と共に歩む必要性から、運動の修正を実践していった。
その一つが「寺院による小学校」建設の運動だ。
当時、小学校に通えない子どもが多数存在した。そこから全国で学校建設運動が始まる。運動は2000年直前からスタートした。2013年には全国に1,500校まで増えた。
私達が交流したミンチャン市(マンダレー管区)を例にとると、当初、公立は小学校1校のみで、寺院運営小学校9校であった。
寺院が運営する小学校の学費は無料で、校舎の建設などは寺院が負担する。小学校運営委員会が創設され、これに多くの市民が関わり、学校運営にも参加するようになった。例えば、教員の賃金を市民のカンパで賄うものだ。給料日の前は集金に大忙しである。
 
総選挙と学校運営委員会
2015年の総選挙ではこのミンチャン市選挙区から、運営委員会事務局長のアミューダ氏がNLD(国民民主連盟)から立候補し、見事に当選した。
この総選挙運動の、原動力を担ったのが小学校運営委員会だ。
小学校で全校生徒集会が開催されると聞き、私はウートン僧侶(民主化運動の指導者)と見学した。生徒たちが教員に対して要望や批判を展開していた。生徒から「先生は宿題をしろと言うけれど、家の手伝いで宿題までは出来ない」という意見に大きな拍手が起きた。生徒の自立心を育てる企画であった。
 
サフラン革命2が示したこと
2007年、ヤンゴンを中心に僧侶が民主化を訴えてデモ行進を実行したサフラン革命。
当時の映像が示す通り、市民に熱狂的に受け入れられた。多くの市民も参加し、家々からは人々がデモを支持する姿が見られ、窓も屋上も歓喜にあふれていた。このデモの先頭にいたエンダカ僧侶は、アウンサンスーチーさんも自宅から出てきて、デモの僧侶たちに全身を大地に投げ出し、感謝と敬意を示した、と語っている。
 この国の変革を考えた時、僧侶を抜きにはありえないと確信する。
ヤンゴンのエンダカ僧侶について述べたい。僧侶は結婚や性行為も許されないため世襲はない。エンダカ僧侶が現在の寺院の住職になったのは、前住職と刑務所で出会ったという経緯からだ。二人とも民主化運動の闘士で、刑務所で意気投合して住職を継いだのである。ミャンマーの僧侶には日本と違う禁止事項が100を超す。例えば「貯蓄」は許されない、金も、服も、家も所有は許されない。全て寄進しなければならない。
 故にミャンマーでは、住民の支持を失った僧侶は生きていけないのである。
 
解決の鍵は僧侶に
この国の僧侶は50万人。100人に1人が僧侶である。私は民主派僧侶しか知古はないが、軍人の相談にあずかる僧侶も存在する。ビルマがミャンマーに、ラングーンがヤンゴンに変更されたのも、僧侶による「占い」だと、全てのミャンマー人は考えている。
この国ほどの「熱心な仏教国」は無い。
ならば、その僧侶たちを動かすことを考えるべきだ。ミャンマー以外の国の仏教関係者も、世界仏教徒会議の開催、僧侶の交流など、様々な方法を駆使すべき時がきている。
 
武装蜂起の危うさ
 報道で、「少数民族の軍隊で、民主活動家が武装訓練」などの情報を眼にする。危険性を禁じえない。
 少数民族が住む地域は、多くが山岳地帯だ。地形を生かして国軍と対峙している。その結果、国軍との戦闘も辛うじて負けずに持ちこたえているのが現状だ。そして何とか生活の糧を守っている。
その少数民族軍(2万人とも、4万人とも言われるが、殆どが非常時のみ召集される軍人だ)が武装化したとしても、40万の国軍には勝てない。
 
 
注1:日本軍は各国に特務機関を送り出している。ミャンマーには鈴木敬司陸軍大佐が「読売新聞特派員の南益世」という偽名を使ってラングーン入りし、独立運動の支援などにあたった。
注2:2007年、僧侶による民主化要求デモが行われた。僧侶の袈裟の色からその名がついた。取材していた日本人カメラマン・長井健司さんが射殺された。その映像が「ビルマ民主の風(軍部の蛮行を隠し撮り)」により、全世界に配信され、関心が高まった。
 
2021年6月
ミャンマー関西
〒653-0041 神戸市長田区久保町6-1-1 アスタくにづか4番館2階
電話:078-647-7548
Eメール:myanmarkansai2015[a]gmail.com ([a]を@にかえてください)
 
※カンパをよろしくお願いいたします。
名義:ミャンマー関西 郵便振り込み:00930-9-276064
 
<参照> ミャンマー関西の活動紹介の記事
https://digital.asahi.com/articles/ASP6K6SRRP6JPIHB01J.html?iref=pc_ss_date_article
「在日ミャンマー人の励ましに」支援続ける神戸の団体(2021年6月18日 朝日新聞)

(2021年06月22日 掲載)