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国際人権ひろば No.64(2005年11月発行号)

特集 真の友情を築く市民交流のための韓国スタディツアー Part4  - 参加者の感想より -

2回目の「里帰り」は、違う韓国があった

梁 英子 (ヤン ヨンジャ) 弁護士

私はどういう「在日」か


  私は、1957年生まれの在日韓国人3世です。 大学時代は韓国は軍事独裁政権下で、在日本大韓民国民団や韓国領事館は近づきたくない場所でしたから、パスポートもありませんでした。親戚は皆日本に来ており、祖国は大変遠い存在でした。韓国が話題になるのはいつも暗い政治のことばかりで、在日にも受け継がれている衣食住・祭礼などの文化に、日本人は誰も関心をもたないことに苛立っていました。大学を卒業してまもなく光州事件[注]がありました。自分のあまりの無力さに、歯ぎしりする思いでした。
  その後結婚して子どもを生み、多かれ少なかれ儒教思想の下で育った在日の夫婦が子育てを共に担える家庭を築き、仕事を覚えてゆく日々が続きました。祖国の様子に積極的な関心も払わぬまま、気がつくと、とても長い年月が過ぎていました。
  5年程前、日本人の友人に誘われ、初めて韓国を訪れました。生まれる前から里子に出されていた子が、長じて初めて実家を訪れた気分でした。ずっと人から話を聞き、いつかは行ってみたいと思っていた実家をはじめて見て感激しましたが、会ったこともない人達を訪ねる勇気がなく、家の前から門を見ただけで、満足して帰ったような旅でした。

8月15日の祖国


  今回のスタディツアーでは、実家をよく知る心強い案内役のおかげで、家の中に入って、親族とも話をして、初めて本当の里帰りができたように思います。
  何より解放記念日を祖国で過ごせたことには、はかりしれない意味があったと思います。滞在中、心理学の授業で聞いた「図と地」の概念を何度も思い出しました。「人の知覚には、ものごとを「図(浮かびあがるかたち)と地(背景)」に分離して認識する性質がある」そうです。どの部分に着目するかによって、全く同じ一つの絵が、美女になったり、魔女になったり、さかずきが2人の向き合う横顔に反転したりする図柄を覚えておられる方も多いと思います。
  「終戦記念日」ではない解放記念日の華やかな街の様子、解放60周年を特集するKBSの放送(韓国では誰もが知っている大事件を振り返る特集ですが、知らないことが沢山ありました)、日本では到底分からない南北融和の機運、ナヌムの家での胸に迫り来る事実、西大門刑務所で触れた凄絶な独立運動の歴史、独裁政権時代もここが韓国の政治犯拘置所として使われていたこと、韓国では子ども達が暗唱できるという格調高い三・一独立宣言、日本の憲法改正の動きをアジアの平和問題として鋭く状況分析する「参与連帯」の人達、日本のはるか先をゆく女性の市民運動...数え上げればきりがないほど「図と地」反転の連続でした。

くたびれてきた中年を元気づけるスタディツアーの威力


 五感、六感を使って見聞きし、触れ、感じたことで何が変わったでしょうか。
 まず、カタツムリが触覚を出すように、祖国へのアンテナが伸びてきたことです。解放後とりわけ光州事件後の歴史をもっと確かめて韓国の今を知りたいと思いが湧き、韓国の翻訳本の書評や法律実務の現状を紹介する原稿などに、パッと目が止まるようになりました。見ようとしないかぎり見えないものを、しっかり見たいと心から思えるのです。それはツアーで私たちのために何かと世話を買って出て下さった日韓の皆さん、とりわけ現地に暮らす在日の人たちとの出会いを通じて、在日のもつ可能性を目の当たりに教えられたからだと思います。在日には、他人の見方としてではなく自分の視点で、「図と地」の両方の絵柄を見ることができるのです。
 また、韓国では長い抑圧者との闘いを通じて、人権は闘いとるものだという意識が日本よりはるかに根付いていると感じたことも、すばらしい体験でした。日本では「人権学習」があるように、人権が「学ぶもの」になってしまっていると感じます。
 ツアーのゆく先々で、人権が、日々の暮らしのなかで他者と自分の関係をどう変えてゆくかという実践の問題として、きちんと捉えられていると感じました。学習対象の「標本」ではなく「生きた人権」が社会に存在していることに、大変勇気づけられました。
 最後に、「真の友情を築くためのスタディツアー」という名にふさわしく、すばらしい参加者の方々に出会えたことも、宝物のように大切に思います。

:1980年5月、軍の戒厳令に抗議する光州市内の学生デモを鎮圧するために投入された戒厳軍に対し、光州市民が展開した民主化闘争。死者・行方不明者数が200人を越えるなど多くの犠牲者が出た。