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国際人権ひろば No.58(2004年11月発行号)

特集:紛争と人権 Part1

カシミール-聞こえざる声、届かぬ声

廣瀬 和司(ひろせ かずし) ジャーナリスト

■ 今なお増え続けている行方不明


  毎月1回、月の下旬になるとインド側カシミール(以下カシミール)の夏の州都であるスリナガルの中心部にあるシェリ・カシミール公園では、鉢巻を締めた男女あわせて40人ほどが座り込みをしている姿が見られる。鉢巻にはDisappear(失踪)と書かれ、のっぺらぼうの顔の絵と名前が記されている。彼らは何かを声高に訴えるわけではない。近づいてくる市民や報道陣がいれば、膝を付き合わせて自分たちの置かれた状況を説明し、理解してもらう。
  この座り込みをしている人々の息子や夫のほとんどは、治安部隊に拘束された後に行方不明になったままなのだ。彼らは行方不明者家族の会(APDP)の会員たちで、鉢巻に書かれた名前は行方不明になった家族の名であり、空白になった顔は見失ったことの象徴なのである。
  カシミールで、行方不明など治安部隊による人権侵害が日常化し始めたのは、87年以降のことである。その年の春に州議会選挙が行われたが、その選挙でインド政府による選挙妨害や不正開票疑惑などが持ち上がった。それまでもインド政府と州政府の間で癒着と腐敗が繰り返され、また、カシミールの帰属を決めるはずの国連監視下での住民投票が実施されないなど人々の不満は高まっていた。そんな中、選挙という民主的な手段での政治参加を否定され絶望した人々は、インド政府の支配を嫌い、分離独立を求めて武装闘争を本格化させたのだ。この武装蜂起を鎮圧するため、インド政府によるイスラム系住民への弾圧が過酷を極めているのである。
  「州政府が認定している80年代後半からの行方不明者の数は391人に過ぎませんが、我われは8,000人以上と推定しています。現在のムフティ州首相は2002年の就任時に人権侵害の撲滅を公約に掲げました。しかし、我われの調査ではそれから04年の10月までに、144人の行方不明者が出ています。我われが座り込みをするのは、この公園が州政府与党と警察の事務所の前にあり彼らに圧力をかけるとともに、市民が訪れるこの場所で平和的な方法で問題を世論に喚起するためです」とAPDPの顧問である弁護士のパルベーズ・イムローズ氏は語る。
  1995年に結成されたAPDPの会員は約500家族。家族たちの訴訟支援や相互扶助を目的としている。APDPの設立のきっかけになったのはパルヴィーナ・アハンガーさんという女性だった。彼女の息子の1人が90年に行方不明になったのだが、それに対して治安部隊を相手に裁判を起こしたのである。これは大変勇気のあることだった。治安部隊からの報復を恐れて、それまで誰もしなかったことだからである。

■ 悪法の存在


  この裁判はカシミールで人権侵害の問題で治安部隊を訴えた最初のケースとして注目を浴びた。提訴を受けたカシミール高裁は地元警察に事件の調査を命じた。その結果、彼女の息子ジャビッドさん〈当時20歳〉を逮捕したのは、内務省直轄の国家治安警察(NSG)に所属する三人の将校であることを特定した。しかし、彼らが起訴されることはなかった。軍事特別法(Armed Force Special Powers Act)という治安法があり、軍人は所轄する省庁の許可がないと訴追できないのである。内務省は起訴内容を証拠不十分とし、この法律を根拠に拒否したのである。
  パルベーズ氏は「これは稀代の悪法です。この法律によって治安部隊は何でもできるのです。拷問や強姦、殺人など、どんな不法行為をしようとも処罰されることなく済まされてしまうのです」とこの法律の不当さを訴える。

■ 家族たちが求めているものは...


  こうして被疑者は訴追されなかった。しかし、パルヴィーナさんの後を追って、他の被害者の家族たちが次々と訴訟に持ち込みはじめた。すると、インド政府は金銭補償を持ちかけてきたという。
  「2000年の8月にスリナガルの行政長官であるクルシッド・ガナイに呼ばれました。全ての起訴を撤回するなら、1件につき10万インドルピー(約25万円。家族たちの平均月収は約12,500円)を払います。政府としては2億7,000万インドルピーを予算として用意している、と言うのです。私は『それでは、私は30万インドルピーを払いますから、あなたの息子を下さい』と言いました。私たちは家族を売ることなどできません。私たちが求めているのはお金ではなく、真相の究明なのです」とパルヴィーナさんは言い切る。
  しかし、活動は決して平穏ではない。98年と03年にメンバーが二人、活動を止めるようにという脅迫を受けた後、政府側の民兵と思われる武装集団に暗殺されている。98年にメンバーが殺された最初の事件がおきた直後、パルヴィーナさんはパニックに陥った。今度は自分のところに刺客が送り込まれて来るのでは、と恐怖が全身を襲った。そのため事件後3日間身を隠した。
  「でも、逃げたからといって逃げ切れるわけではありません。それに、ここで諦めたら私の人生の価値とはなんなのでしょうか。そう自問して活動を続けることにしました」と、彼女は言葉を継ぐ。行方不明者の家族たちは、自分たちの息子や夫が居なくなるだけでなく、当局の卑劣な妨害と命懸けで闘わなければならないのだ。

■ 心も体も破壊する過酷な拷問


  人権侵害を支えているのは軍事特別法のほかに、カシミール公安法(PSA)、カシミール騒乱地域法(DAA)、テロ防止法(TADA)などの治安法だ。これによって、現場で治安当局が怪しいと判断すれば令状なしで被疑者を逮捕し、裁判なしで1年から2年の拘留が認められている。治安当局はゲリラ掃討の名の下にこれらを乱用し、行方不明だけでなく、現場での被疑者の拷問、処刑が後を絶たない。
  04年10月、スリナガル市内で私は1人の男に出会った。その男は瞬きもせず、どこか茫然した表情のまま私を見据え、何度も同じ言葉を繰り返した。
「俺はパキスタンで訓練を受けたゲリラなんだ、独立を勝ち取るんだよ、でも、リーダーがインディラ・ガンディーに降参してしまったんだ」
  男の名はマンズールさん(仮名・32歳)といい、90年にパキスタンに渡りゲリラとして訓練を受けた。その後、92年に逮捕され、すぐ釈放されたものの00年までに逮捕と拘留が何度も繰り返された。その間に、殴打、電気ショック、指と爪の間に釘を差し込む、眼を焼くランプを長時間当てられるなどの拷問が行われ、とうとう統合失調症に罹ってしまったのだ。家族によると、ずっと笑い続けたり、大量の水を飲み続けたり、階段の昇り降りをし続けるなど、奇矯な行動ばかりするという。被害に遭っているのは彼だけではない。父親と弟も彼がゲリラだったことから拘束されて拷問を受け、父親もまた精神を病み、弟の手の指は曲がらなくなってしまっていた。「やつらは体に障害が残るか、心が壊れるまで俺たちを痛めつけるのを止めないんですよ」と彼の叔父が言うと、その場にいた男たちはみな頷いた。

■ 核の問題だけではないカシミール問題


  このようなカシミールでの治安部隊による人権侵害は公然の秘密となっている。誰もが知っているが、語られないのだ。地元のメディアでは伝えられるが、インドの国内メディアやAP通信、ロイターなどの国際メディアで取り上げられることは少ない。インドの全国紙がカシミール警察の特殊部隊が住民を虐殺したことを一面で報じたことがあった。しかし、それはカシミール人がカシミール人を殺している、という構図で描こうとした意図が透けて見えたものだった。
  その背景を地元紙のショウカット記者に訊くと「インドのメディアはインドの国益のために働いています。例えば、グジャラートでの宗教暴動のことはニュースにします。これはあくまで国内問題だからです。しかし、カシミールの場合は国際問題になりますし、国を守る治安部隊の名を汚したくないのです。また国際メディアの現地の特派員は記事を送っていますが、インドでの取材活動を制限されるのを恐れて、デスクが使わないことが多いのです」と言う。
  カシミール問題は、インド・パキスタン両国の核開発競争の引き金になっているとし、被爆国である日本ではその名前だけは有名だ。だが、カシミールの住民が核の恐怖よりも、治安部隊の銃と暴力による支配に戦慄を感じていることは知られてこなかった。そして、「核」という大きな問題の前に、そこに生きる人々の声を聞くことを、私たちは知らぬ間に怠ってこなかっただろうか。それを改めない限り「世界最大の民主主義国」によって、カシミールの人々は殺され続けられなければならないだろう。