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国際人権ひろば No.66(2006年03月発行号)

アジア・太平洋の窓 Part2

ベトナム戦争は終わらない ~枯れ葉剤後遺症に苦しむ人びと

村山 康文 (むらやま やすふみ) フォトジャーナリスト

  1975年4月30日、ベトナム・ホーチミン市(旧サイゴン)にある統一会堂(旧南ベトナム政権の大統領官邸)に南ベトナム解放民族戦線の戦車が無血入城を果たし、ベトナム戦争は終結した。

  54年、第1次インドシナ戦争終結後、ジュネーブ協定により、北緯17度線を軍事境界線としてホー・チ・ミン率いる北ベトナムとゴ・ディン・ジエム大統領率いる南ベトナムに分断される。

  2年後に行われるはずだった全国選挙を南ベトナムが拒否し、ジエムはアメリカの軍事・経済援助を後ろ盾にファシズム的支配を強めていった。弾圧された農民や仏教徒らは、反ジエムの姿勢を打ち出し、60年には南ベトナム解放民族戦線がうまれ、ベトナム戦争へと突入していく。

  アメリカは61年から南ベトナムを援助し、南ベトナムが負ければ、東南アジア諸国から日本に至るまで次々と共産主義に支配されるというドミノ理論を擁してベトナムへの軍事介入を正当化する。

  64年8月、のちにでっち上げだったことが判明したトン・キン湾事件(米軍の駆逐艦が北ベトナム軍の攻撃を受けたとデマを発表)を口実に、アメリカは報復爆撃を行った。そして、翌年から本格的な北爆を開始した。

  米軍は、ベトナム戦争の間に785万トンの爆弾を使用した。物量の規模でいえば、第2次世界大戦をしのぐ史上最大の戦争だった。米軍が北ベトナムに落とした爆砲弾は、病院や学校などの各施設を壊滅した。

  なかでも長期にわたり人びとを苦しめているもののひとつに枯れ葉剤がある。

  米軍が枯れ葉剤を使用したそもそもの目的は、解放戦線の隠れ家であるジャングルを絶滅させ、解放区で作られる農作物を汚染し、食糧を奪うためだった。

  戦争当時、赤十字総裁だったレ・カオ・ダイ医師の著書「ベトナム戦争におけるエージェントオレンジ 歴史と影響」によると、61年から10年の間に約7,200万リットルの枯れ葉剤を米軍は散布した。その中に少なくとも170キロの催奇性や発がん性を持つ猛毒のダイオキシンが含まれていた。

  現在も2世、3世への枯れ葉剤の影響が指摘され、ベトナム全土で8,000万人超の人口の中の100万人以上の人びとが枯れ葉剤による外形的障害、遺伝疾患やがんなどの後遺障害に苦しんでいるといわれている。

  また、ベトナム戦争終結後に生まれた子どもたち15万人以上に重篤な疾患をもたらしている。

  ホーチミン市にベトちゃん・ドクちゃんが分離手術を受けたツーヅー産婦人科病院がある。中に障害者の発達をサポートするための「平和の村」と呼ばれる病棟があり、現在、生後間もない子から25歳くらいまでの約60人が生活をしている。

  ツーヅー病院の04年の調査報告書によると、年間44,000人の出産のうち枯れ葉剤によると思われる先天性障害の子どもの出産は約700件、1.6%を上回る。

  障害を持った人びとが必ずしも施設に入れるわけではない。重篤な疾患があっても入所できない場合も多い。

  ドー・トゥイ・ユンさん、17歳。ベトナム戦争終結から13年後、南部の大都市ホーチミン市から南西約200キロに位置するソクチャン省ミースエン県で生まれた。のどかな田園風景が広がる田舎町。

  ユンさんは、父親の浴びた枯れ葉剤が原因で、きれいな左の顔とは対照的に右半分が茶色く変色し、崩れ落ちている。
 「娘が生まれたときには顔に障害はなかった。小学校に上がるころに顔の崩れが始まったんです」、とユンさんの父ファットさん(61)は話す。

  同じ国の人びとが殺しあった悲劇の戦争。時には家族で敵味方に分かれて戦った。300万人近くのベトナム人が死亡し、400万人のベトナム人が負傷。米兵は58,000人が死亡したといわれている。

  ファットさんは20代半ば、自然の恵み豊かな南部のメコンデルタで農業を営んでいた。次第にファットさんにもベトナム戦争の足音が近づき、メコンデルタのドンタップ省にいた70年、政府軍の徴兵から逃れるため、右足の指を2本、自ら切り落とした。それでもファットさんは結局解放戦線に入隊せざるを得なかった。だが、戦闘に参加するのがいやで、兵士の食事を作ったり、村人の世話をする役をした。

  ドンタップ省も戦闘が激化し、追われるようにベトナム最南端のカマウ省・ウーミンの森に移住した。ウーミンの森は解放戦線の一大拠点で最も多くの枯れ葉剤が撒かれた場所のひとつだった。

  ファットさんの頭上を飛び交う米軍機は、容赦なく大量の枯れ葉剤を撒いた。ファットさんは、枯れ葉剤のしずくで濡れるジャングルに身をひそめ、川で魚を獲り、その水で育った米を食べて生き延びた。
 「当時、人間に影響はなかった。それがまさかこんな後になって影響が出てくるなんて・・・」。

  ユンさんは、ベトナム政府から枯れ葉剤被害者に認定され、わずかばかりの援助を受けている。しかし、枯れ葉剤を撒いたアメリカは、何の補償もしていない。

  ベトナムでは、04年に「枯れ葉剤被害者協会」が設立された。被害者協会と家族の27人が米製薬会社37社に賠償などを求める初の集団訴訟を起こした。

  しかし、05年3月、ニューヨーク州のブルックリン地裁は、84年に米軍のベトナム帰還兵の枯れ葉剤集団訴訟に対しては1億8,000万ドルの補償金を支払ったにもかかわらず、ベトナムの枯れ葉剤被害者に対しては、ベトナムでの枯れ葉剤の使用が戦争終結直前の時点では国際法に反しておらず、また原告側が奇形などの症状と枯れ葉剤の因果関係を証明できていないと訴えを棄却した。

  06年、ベトナム戦争終結からまもなく31年が経とうとしている。現在も引きずり続けるベトナム戦争の傷跡。アメリカは、再びイラクでベトナムと同じことを繰り返そうとしている。米軍が使用する劣化ウラン弾は、障害を持った子どもがたくさん生まれる可能性が高い。被爆したイラクの子どもたちが、ベトナムでの枯れ葉剤の影響で苦しむ子どもたちの二の舞になるのではないかと危惧する。

  近年、ホーチミン市はみるみる華やかになり、世界中からの観光客があとを絶たない。表向きには戦争の痕跡は見えにくくなっているが、ベトナム戦争が残した傷が癒せない人びとも数多くいる。

  戦争は多くの人びとの身体だけではなく心に傷を残す。枯れ葉剤被害者たちが私たちに訴えかけるものとはいったい何なのだろうか。

『ユンちゃんを支援する会』のホームページ