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国際人権ひろば No.91(2010年05月発行号)

人権さまざま

日本の伝統と人権

白石 理(しらいし おさむ)
ヒューライツ大阪 所 長

ウィーン宣言および行動計画、第1部、5節

すべての人権は、普遍的且つ不可分であり、相互に依存し且つ関連している。国際社会は、公正で平等な方法で、同一の立場に基づき且つ等しく重点を置いて、人権を地球規模で取り扱わなければならない。国内的、地域的特殊性並びに様々な歴史的、文化的及び宗教的背景の重要性を考慮しなければならないが、すべての人権及び基本的自由の伸長及び保護は、その政治的、経済的及び文化的制度のいかんに拘らす、国家の義務である。


 「人権のこと、国際的な人権基準がどうこう言う人たちは、日本の伝統について全く知らないんじゃないか。あの連中は日本の国、日本の美しい伝統、美徳を全く潰してしまうつもりか」。こんなインターネットの書き込みがあった。人権という普遍的価値と日本的なものは対立すると考える人は意外に多いのかもしれない。

 アジア的、あるいは伝統的価値という考えが1993年の世界人権会議のころに盛んに議論されたことを思い出す。世界人権会議の事務局の仕事をしていたときのことである。会議の一年前から、世界の各地で準備会議という形で地域別の提案を準備した。その会議で地域独自の価値観を主張したのはアジアだけであった。最後まで、パキスタン、イラン、シンガポール、マレーシア、中国、この5つの国が、「国際的な人権価値は普遍的とは言えない。アジアにはアジアの人権の考えがある」ということを主張し、議論は紛糾した。最終的には、冒頭にあるように宣言の一節として収まった。こうして人権の普遍性と人権を守る責任はまずそれぞれの国にあるということが再確認された。

 アジアには古くからいろいろの伝統や価値観がある。他方、目まぐるしく変わるアジアの国々の現実がある。国によっても違いは大きい。アジアは広く、多様性を持つ。東北アジア、東南アジア、南アジア、西アジア、それぞれ大きく異なる。そこで、アジア的価値が大切だ、と言っても一つの言葉では伝えきれないのがアジアである。「アジア的価値」はあまり現実的な捉え方ではないのではないだろうか。

 伝統的価値といっても国によってさまざまである。日本を例に見てみよう。日本には当然、伝統的価値がある。その中には、人権に合うもの、また合わないものがある。例えば、日本で長い間当たり前と思われてきたことがある。女性の社会での活躍の場の少なさや、家庭や社会における女性の役割である。男女の平等という観点からいえば、これらを支えているのは人権とは異なる価値観である。今でも日本では男女平等が実質的に実現されているとは言えない。男女共同参画政策の一例は、「母親が働けるように保育所を充実させよう。母親が子どもを遅くまで預けられるようにしよう」というものである。子どもをつくるには女だけではできない。そこで責任の一端を引き受けるはずの男は何をしているか。そういう議論が日本の社会では、ほとんど行われない。男女共同参画は言葉だけに終わっていないだろうか。

 反対に、日本にも人権に合った伝統的価値がある。例えば、弱い人とか、子どもに対する特別な配慮である。それは日本社会には昔からあったものである。元気な人に無視されることがあるが、電車の中では、「高齢者、妊婦、病人に対して席を譲りましょう」と書いてある。それは、「これはやっぱり守らないといけない」と、広く一般に、考えられているのではないか。それは、伝統的価値でありながら、普遍的な、国際的な価値と結びつくものだと思う。

 人権の価値と伝統的価値をどこまで合わせることができるか。人間を貶めるようなもの、差別を継続するようなもの、それから女性、弱い立場の人、少数者、外国籍の人たちを大切にしないのが当たり前の伝統、あるいは多数の力で押し切ってしまうことが許される、それが伝統的価値であるならば、私はそういう伝統的価値は退けたいと思う。

 それでは、アジアにおいて、また日本で、世界の変化に対応しながらも、それぞれの伝統の中にある「人を大切にする」というのはどういうことなのか。人権の要請と良い伝統的価値をどうやって結び付けていくか。ただ時の世論に流されて、人権教育を「日本に合わせるために権利だけを強調しないようにしましょう」ではいけない。「人権は西洋からのものだから、それは受け入れない」という考えに対して、人権が日本でだけ通じる人権であっていいのか。このような問題をもう一度、日本社会もアジアの社会も考えていかなければいけないと思う。

 個人主義に基づく今までの伝統的な人権の考えではなく、共同体、集団としての権利を取り込んだ形で、経済権、社会権を考える時代である。このように新しい動きはつぎつぎに出てきている。ただし、それは人権の基本的な原則、全ての人、一人の例外もなく全ての人が、尊厳と権利を持つことでは平等であるという原則は変わることはない。変わる世界で、変わらないものを見失わないことが大切である。

 人権というどこにでも通用するもの、すなわち普遍的な価値を、社会に根付かせようと努力をする人たちは、自分たちもそれぞれの文化、伝統に意識的にも無意識的にも影響されているという限界を知っており、どうやれば人権の本当のメッセージが伝わるかということを意識的に考える。

 人権は社会を変える道具である。それは伝統的な社会の中で、人を大切にしない部分、抑圧的な部分、差別的な部分を取り除いて、新しい社会を築いていくための道具である。それは、長い時間と人々の努力に負うところが大きい。次の世代を担う若い人が中心にならなければ出来ないことである。