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国際人権ひろば No.96(2011年03月発行号)

特集

シンポジウム「若者が語る多文化共生~外国にルーツをもつ子どもの権利を考える」

 ヒューライツ大阪は2010年11月27日、大阪女学院大学国際共生研究所との共催で、(財)とよなか国際交流協会の協力のもと、外国につながりのある4人の大学生・大学院生をパネリストに招いてシンポジウム「若者が語る多文化共生~外国にルーツをもつ子どもの権利を考える」を同大学内において開催しました。本誌では報告とディスカッションの要約を紹介します。

パネリスト:
・グェンティ ホンハウベトナム難民2世
・焦春柳(ジャオ ツゥンリョウ)中国出身
・三木幸美(みき ゆきみ)
父は日本人、母はフィリピン人
・呉賢志(オヒョンジ)在日コリアン3世
進行・コメンテーター:
 元 百合子(もと ゆりこ)大阪女学院大学教員

 1980年代以降、日本の社会は急速に民族的・文化的に多様化してきた。ただ、日本の人権状況の特徴として、「日本人」と外国籍住民の人権状況に非常に大きな差がある。
 とくに、外国籍や無国籍の子どもたち、外国にルーツをもつ子どもたちの状況は、重大な問題だ。例えば、それらの子どもたちは日本国憲法と教育基本法が規定する義務教育の枠外に置かれている。重要な人権である教育への権利が保障されていない。しかも、そうした問題に対する社会的な関心は低い。
 今日は、外国にルーツをもつ学生のみなさん4人に、国籍や在留資格の問題をはじめ、これまでの経験や感じたこと、考えてきたことについて率直に話していただき、多文化共生と人権について、参加者とともに考える機会にしたい。

<報告>

日本の多文化共生への道は明るいか?
グェンティホンハウ

 私は、現在京都大学大学院博士過程で教育学を専攻している。「あなたはどこの国の方ですか」という質問にはいつも困るが、とりあえず「ベトナム難民二世です」と答えるようにしている。私の両親はベトナムから難民として船で国を出て、日本の漁船に助けられたこともあって、日本に来た。私は日本で生まれ、日本で育ってきた。第一言語は日本語で、ベトナム語は聞きとることはできるが、話すのは片言。だから、日本人ではないし、かといってベトナム人でもない。
 それは気持ちの問題だけではなく、実は自分の国籍が分からないという制度上の状況にも起因する。日本は血統主義で、日本で生まれても親が日本人でない場合、日本国籍を与えない。また、両親が難民としてベトナムを出たということでベトナム国籍を剥奪された状態であることから、ベトナム国籍を得ることもできない。つまり、私は日本国籍もベトナム国籍も持たない無国籍状態なのだ。
 私の問題関心のひとつは、日本に住んでいる外国ルーツの子どもたちのさまざま困難だ。自分が他者から受け入れてもらえるか、拒否されたらどうしようという不安と葛藤が、そのような子どもたちが抱えざるを得ないリアルな問題なのではないかと思う。ただ、感じ方考え方は多様なので、重要なのは一人一人と関わり、話を聞き、知り合うことだと思う。
 外国にルーツをもつ青年たちが集まるイベントに参加したとき、「10年後の日本の多文化共生は明るいか暗いか」というテーマでグループ・ディスカッションを行った。その中で、なんと10中8グループが「暗い」と答えた。「明るい」と答えた2グループ中の一つの代表者は私だった。参加した青年たちの多くは、日本での不安定な状況の中で苦労して仕事してきた両親の背中を見て育っている。言葉での困難や、会社の状況が悪くなるとすぐ辞めさせられてしまう状況をつぶさに見てきたのだろう。だから、「日本の多文化共生の未来は暗い」と答えるのは仕方ないかもしれない。私以外に「明るい」と答えたグループの代表だったベトナム男性は「自分たちが日本に役に立つ人間になればいい」と語った。それはその通りだし、確かに必要なことだが、私たちが日本にいられる理由はそれだけなのだろうか、とひっかかった。外国にルーツをもつ青年たちが、「外国人は役に立たなければ受け入れてもらえない」と当たり前のように考えていることがすごく残念だった。じゃあ優秀になれず社会の役に立てなくなってしまった人はどうしたらいいのか。
 群馬県の「あかつきの村」は私にとってとても大事な場所だ。そこは、日本に来て心の病になり働けなくなった元ベトナム難民の人たちが暮らしている。そこに初めて訪問したのは私が大学1年生のとき。そこで出会った元ベトナム難民の男性が私にこう言った。「自分が生きていても社会になんの利益もない。ただその日をやり過ごして死ぬのを待つだけだ」。私はその言葉になんて答えたらいいかわからなかった。彼は40代後半くらいだが、病気の回復や社会復帰を望むことなく、その施設で過ごさなくてはならなかった。彼をそこまで追いつめたものはなんだったのかということを、今も自分の中で問い続けている。
 私が「10年後の多文化共生は明るい」と答えたのは、なぜか。それは、その問いを、「あなたは日本の多文化共生の10年後が、明るくなるよう行動するか、それとも暗くなるように行動するのか」という問いかけとして受け止めたからだ。「多文化共生」で大事なのは、自分の思い通りに相手を変えることではなく、その人と出会うことで自分も変わり、その出会いを通して相手も何かが変わっていく、その瞬間だと思う。いつもそうあることは難しいが、そんな瞬間に立ち会い、そうした時間を大切にすることが最も大切だということを、これまでの経験の中で感じてきた。

いじめと在留資格の問題で苦しんだ過去
焦春柳

 私は日本に来て8年間くらい「不法滞在者」だったという体験を中心に話す。今から13年前に家族と一緒に日本に来た。日本語がわからないので、学年を一つ下げて小学校に通い、焦春柳(ジャオ ツゥンリョウ)という名を使っていた。中国人で日本語がしゃべれないということでイジメにあった。日本に対していいイメージを持っていたが、イジメにあってすごくショックだった。
 その頃、下の妹を妊娠していた母が突然、結核で入院することになり、家族が一緒に暮らせない日々が始まった。医師から母子とも助かる可能性は少ないと告げられた。母は絶対に産むと言って産んだが、奇跡的に二人とも助かった。そこからは、日本人は優しいという印象をもつようになった。
 それから3年間くらい経った。名前を理由にいじめられることが多かったので、引越しをきっかけに日本名の北浦加奈を名乗るようになり、自分が中国人だということを隠すようになった。いじめられることを誰にも言えず、自分で自分を守るしかないと思って、普通の人より汚い日本語を使ったりした。
 在留資格の更新は、それまで順調にできていたが、ある日一家の在留資格を取り消すと書いた呼び出し状が届いた。出頭すれば一家強制送還されるかもしれないと言われたけど「何もやましいことはしてないから」という母の一言で家族揃って入国管理局に出頭した。そこで私が見た光景は一生忘れられない。父はすぐに収容されて、母は別室で尋問を受けることになった。だいぶ離れた部屋から母を怒鳴る大声が聞こえた。待っていた私は、幼い妹2人を抱きしめて泣くことしかできなかった。これからどうなるのかと不安のどん底に突き落とされたような気持ちになった。
 日本に残るためには裁判をしなければならないということを知った。裁判費用や生活費などを母が一人で抱えていた。結核が治ったと聞いていたが、ある日、たまたま母が隠れて血を吐いているのを見た。学校に行っている場合じゃないと思った私は中学を休んで、工場で朝9時から夜10時まで、生活の足しにと働き始めた。長時間働くのが体力的にしんどかった。でも、在留資格をもらえると信じていたので頑張れた。とても学校に通いたかったけれど、もう学校には行けないって自分に言い聞かせていた。ある時、知人から定時制高校はどうかと言われた。
 受験しても落ちると思ったが受かった。そこで私の人生にちょっと明るい光が見えて、また頑張ろうという気持ちになった。でも、高校入学後1年くらいで在留資格をめぐる裁判に次々と敗訴していった。辛い毎日だった。
 たまたま入った写真部で写真に出会い、賞をもらって新聞に出るようになった。マスコミが、私の置かれている状況をとり上げはじめた。何も悪いことをしてないのに「不法滞在者」という表現をされた。取材は嫌だったけど、記事を読んで周りから応援されたり、知らない人から励ましの手紙をもらったりした。「不法滞在者」は私達だけだと思っていたが、ある集まりに出たときに私より幼い子たちも同じように苦しんでいることを知った。この現状を誰かが前に出て伝えなければ誰も知ることはできない。自分では恥だと思っていることを世に晒すことによって、たくさんの子どもたちが救われたらいいなと思って、私は表に出て行った。
 裁判の勝ち目は10%もないと言われていた。結局、最高裁までいって負けてしまった。私とすぐ下の妹だけが日本に残ることができて、両親と末の妹が強制送還され、一家離れ離れに暮らすことになった。それまでは仮放免という立場で、母が毎月1回入国管理局に出頭して、1~2時間説教されて1ヵ月間の在留資格の延長をしてもらっていた。その手続きを今度は私が毎月やることになった。入管の人に一人の人間として扱ってくれない、犯罪者みたいな扱いをされてすごくショックを受けた。でも、周りの人の支えがあったから頑張ってこれた。昨年、大学に入学し、今年10月に「定住者」の在留資格を得ることができた。普通に日本にいてもいい立場になった。日本には在留資格がなくて苦しんでいる子どもたちがまだ大勢いる。「不法滞在者」というだけでその子を切り捨てずに話を聞いて欲しい。それが多文化で共に生きるということではないか。難しいけれど、いつか日本で家族一緒に暮らすことが私の夢だ。これからやりたいことを見つけていきたい。いまはとよなか国際交流協会で外国にルーツをもつ子たちと一緒に勉強したりして、楽しい生活を送っている。

知らない人に自分から発信すること
三木幸美

 私は母がフィリピン人で父が日本人。日本で生まれ育ってきた。母は20歳のときに日本に「観光ビザ」で来て、「不法滞在」状態で水商売の仕事に就いていた。そこで日本人の父と知り合って私が生まれた。母は私の出生届けをしようと思ったけれど、強制送還を恐れて登録には行けず、私は国籍のない「無登録児」だった。登録しなければ私は小学校に入学できない。幼稚園に通っていたとき両親が婚姻届を出し、私は父の戸籍に名前が載った。それまでは、健康保険証を持つことができなかったので病院では10割の医療費を払わなければならないし、なんの証明書もないので、母方のパンガヤンという苗字を使っていた。小学生になってはじめて三木幸美という自分を証明する書類ができたのは、子ども心にすごく新鮮でうれしかった。
 私が入学した中学校は人権教育に力を入れており、体育館の窓に「差別をなくすために闘おう」というような意味の張り紙があった。私はそれまで人権について考えたことがなかったが、中学2年生になって考えるようになった。それは、初めて差別を受けたからだ。それまで、他の人が受けた差別について授業でよく聞いていたが、自分のこととしてとらえていなかった。たとえば、外国人だと見下されて言い返せないのは、その人の気持ちが弱いからだと思っていた。
 私が初めて受けた差別は、廊下の一番端から「帰れ、この外国人」と言われた経験だった。でも、なにも言い返せなかった。実は差別した子は在日韓国人だった。なんであの子は私にそんなことを言うのだろうかと思った。「お前も外国人やんか」とあとから腹が立ってきて、悔しさや悲しさでいっぱいになった。
 その後、自分を発信する機会ができた。学校で生徒が参加する反差別共闘委員会というグループが学期末に人権討論集会を開いたとき、その場で初めて自分について話したところ気持ちが楽になった。ボロボロ涙を流しながら話したときに、自分はこんな人間だったって再確認した。今までずっと隠していたものを発信できた安心感があった。
 進学した高校も人権教育が盛んで、4月前半にあった「学校開き」という行事で、800人くらいの生徒たちを前に自分のことを話すというプログラムがあった。そこに先輩が登壇して、「私、被差別部落の出身なんですけど」と一言目に言った。被差別部落というのは隠していられるかもしれないのに、そこで言う意味があるのかとびっくりした。同時にかっこいいなって思った。なんでそんな風に自信をもって言えるのか、自分には無理だと思った。でも2年後には自分も同じ場所に立っていた。だんだん自分の考えも、人の話を聞くことで変わっていった。差別や偏見はなぜ起きるのか、自分の経験を思い出して差別した相手も在日外国人だったことを考えたとき、差別する人にそれはいけないからやめろと言うのは簡単だし、その人はいけないことだとおそらく分かっている。でも、差別する立場になってしまうから怖い。自分の立場を隠して、同じ立場の人を突っつきたいという気持ちが心の底にあったのではないかと思う。
 自分が発信することに意味があると信じていたから、先輩は4月の学校開きで前に立ったのだと思う。私も先輩と同じように前に立ったけど、話しっぱなしで、聞いている人が何を考えていたのか尋ねるのが怖かった。自分が誰かにプラスになったのかどうか不安だった。でも卒業間近に、仲の良い女の子に「私、在日やねん」と告げられた。その子も多分、自分のことを話すことで楽になるって考えたのだろう。私は自分のことを話したのが友だちの役に立ったのだと感じてすごく嬉しかった。今でもその子とは繋がっている。
 多文化共生ってすごく大きなテーマで、自分ひとりで何とかできるものではないけれど、一人ひとりが意識すれば変わる。こうやって一部の頑張っている人だけが頑張っているようじゃ意味ないと思う。知らない人や違った考え方をしている人に私たちが発信することで、変化のきっかけになることってたくさんある。自分の友だちが言ってくれたという小さなことでもよい、それをどんどん広げることが必要だと思う。

当たり前に自分を出せる社会を目指したい
呉賢志

 僕は在日コリアン3世で、朝鮮半島にルーツがある。おじいちゃん、おばあちゃんの世代が戦争のときに日本に来た。僕はいま民族名で生活している。両親も在日だが、子どものときに民族名で過ごすということをしたことがなくて、高校を卒業し大学に入るときに本名宣言をしたと聞いている。ただ、父が職場で日本名を使っていたから、僕自身も小学校に上がるまでは呉本賢志(くれもと さとし)という日本名をもっていた。小学校入学後、民族名に変えた。21歳の今、民族名で生きているのは、小中学校での民族教育の影響が大きい。豊中市出身だが、周囲には在日が少なくて民族教育の場が無く、「豊中市在日外国人教育協議会」の先生が集まって、「韓国・朝鮮ことばとあそびのつどい」を月1回開いていた。そこには、小学校1年生から中学生まで集まっていた。大阪市から民族講師に来ていただき韓国・朝鮮ルーツの子たちに民族教育が行われていた。毎回15人ほどが集まり、皆で料理を作ったり簡単な挨拶を学んだり、高学年になったら名前のことを話し合ったりした。
 小学校5年生のとき、両親と一緒に民族衣装を着てみんなの前で楽器を叩くということになった。両親が学校側に提案したのがきっかけだった。その話を母から聞いて、「つどい」に参加していることも周囲に言っていなかったので恥ずかしくなった。それでもやり終えたら、クラスメートが「すごいなあ」と言ってくれたので嬉しかった。
 中学生の時、生徒会の国際理解活動の一貫として朝鮮の文化を勉強し、楽器演奏などを練習していた。ある時、全校生徒の前でその成果を発表する機会があった。恥ずかしかったけど、嬉しかった。終わってから違うクラスの子が頑張っていたなと言ってくれた。先生も「オ君は自分のことを知ってもらいたくて発表したんだ」と言ってくれて嬉しかった。それが小中学校時代の経験。「つどい」にはずっと通っていた。高校は私立に行ったけれど、とよなか国際交流協会でボランティアをやって、民族楽器を地域の子に教えた。日曜の午前中は小学生に太鼓(チャンゴ)を教えていた。ただ、民族名だったし隠すつもりはなかったけれど、そのことを友だちにうまく言えなかった。周りに在日がいなかったので自分のことを伝えにくかった。
 いま大阪教育大学三回生。入学した直後に教育系のサークルに顔を出した。自己紹介ゲームをして、呼ばれたい名前として、ヒョンジと書いたら、「韓国人みたい」だと笑われたのですごくショックだった。なんで笑うのかと腹が立って親に言った。「みんな将来は先生になるのに、在日の存在も知らないと腹が立った。日本人なんかアホや」と言ってしまった。民族教育を受けていたことや、高校では言えなかったことなどで、周りと思いを共有できなくてイライラしていたのだと思う。親は、「それはあんたの考えが間違ってる。あんたなんでも知ってるのか。在日が一番偉いようなことを言っているけれど、障害者や部落問題のことなど知らんことがたくさんあるのと違うのか」と言われた。
 それで影響されたのか、大学では障害者の介護のボランティアとか部落問題を考えるグループに入ったり、在日朝鮮人教育研究会で活動している。
 自分はいったい何者なのか。大学に入ってすぐの頃は、在日であることをとったら自分には何も残らないのではという意識だった。それが、部落問題や障害者問題と関わるなかで、自分の考えることのキャパシティが大きくなってきて、在日であるという意識の面積自体は大きくなっているけれど、そのことを意識する割合が低くなってきた。
 在日コリアンとしてのアイデンティティだが、オヒョンジと自己紹介すると、何人(なにじん)かと尋ねられる。国籍は韓国だけれど、韓国語もしゃべれない、韓国にも1回しか行ったことがないだけに、韓国人だと言えない気もする。しかし、21歳になっても選挙権がないから日本人でもない。やっぱりルーツがあることは確かで、民族教育もその証、在日という表現が一番すっとくる。僕が目指したいのは当たり前に自分を出せる社会。小学校、中学校時代は自分を受け入れてくれる環境があって、高校では全くなくて、大学ではまた過去を振り返りいろんな人と繋がることができた。小学校の教員を目指しているので、教育実習に行ったとき民族学級を見せてもらい、周りの日本人の先生の理解や支えは必要だと感じた。自分自身も支えがあって生きやすくなっていると思う。それも多文化共生にとって大事な要素ではないか。

<ディスカッション(質疑応答)>

グェンティ:(パスポートを持てるのかという質問に答えて)国籍がないとパスポートは申請できないから私は持っていない。姉がベトナムのパスポートを申請に行ったら、日本国籍を取得して日本のパスポートをとった方が早いと言われた。日本で生まれ育っていても外国に行くときには、日本への再入国許可証と行く国のビザが必要で、ビザを取得する手続きは大変。結局ビザがおりない事もある。ベトナムのビザは簡単におりる。でも日本人がベトナムに観光に行くときには必要ないのに、両親と私はビザが必要なのだ。

焦:(在日外国人を法的に縛っているのは何かという質問に答えて)法律は人びとを守るものだが、私にとって法律は弱い者いじめをしていると感じている。入管の人たちは、子どもの私に「不法滞在者だから悪い」と法律を出して言ってきた。裁判を通じて感じたけれど、外国人やその子どもの声を退ける法律はおかしい。法律のおかしな点を、自分の体験を伝えることで多くの日本人に理解してもらいたい。発信することで皆さんが応援してくれたから在留特別許可を得られた。皆さんの声がなかったら、私はいまここに居ないと思う。

三木:(日比の二国間の架け橋となるような活動についてどう考えているかという質問に答えて)母が地域の識字教室に通っていたこともあり、日本語教育に関心がある。また、子どもたちの教育の大切さを考えて、大学では教職科目をとっている。両親がフィリピンで暮らすようになり離れ離れになったいま、日本がいやだったらいつでもフィリピンに帰ってくればいいよと言われた。母が日本で仕事を探すために求人広告を見て電話をしても、片言の日本語でフィリピン人だと伝えると、すぐに切られる姿を幾度も見た。自分から発信することが、必ずしも自分にプラスになるわけではない。そんな母から、しんどくなったら自分がつぶれないように休みながらしなさいとアドバイスされることが私の頑張れる力になっている。

呉:(北朝鮮と日本との関わりについてどう思うかという質問に答えて)朝鮮学校の授業料無償化問題について、韓国への「砲撃事件」が起きて急きょ風向きが否定的に変わってしまった。子どもの教育がなぜ北朝鮮の動向に大きく左右されるのか疑問だけれど、僕にはどうすることもできない。ある政党が、外国人参政権反対を街頭演説している場に最近遭遇した。外国人は参政権が欲しいなら、国籍を日本に変えてからにしなさいと政治家がマイクで言っていて、チラシを渡された。大学生になって自分が在日だと意識することが少なくなったけれど、そういうことがあるといじめられる対象だと実感し、無力感でしんどくなる。

元:2001年にいわゆる「同時多発テロ」が起きたとき、私はニューヨークに住んでいたが、「この卑劣な事件はパールハーバーにそっくりだ」という報道があり、日系人コミュニティは、差別と迫害の対象になるのではないかと震え上がった。日本にいればマジョリティとして安心・安全を享受していても、海外で住めば日本人もマイノリティとなる。
 アイデンティティに関して、みなさんとルーツの国との関わりについての質問がきているがどうか。

グェンティ:私が初めてベトナムに行ったのは中学校3年生のとき。日本では外国人だけどベトナムに行けばそこは自分の国だと期待して行ったが、淡い期待はもろとも崩れた。私はベトナム語が分からないだろうと思って、周囲の人は好き勝手なことを言うし、何気ないきっかけで言った「この子はベトナム人じゃない」という母の言葉にすごくショックを受けたこともあった。高校二年生のとき、このまま逃げてはダメだと思って、ベトナムに半年間滞在して言葉を勉強した。日本に帰って思ったことは、ベトナムや日本ということにもう縛られなくてもいいということだった。私にとってベトナムとは両親が背負っているものだから、それは大事にしたい。でも、「ルーツはベトナムだ」といって縛られ過ぎないようにしたいとも思っている。

焦:私にとって中国は故郷だが、私がこれから暮らしたいのは日本。日本に来て人との繋がりを大事にできるようになった。在留資格の問題で中国に長い間帰れなかったけれど、この前初めて中国に帰り、家族団らんの時間が実現した。両親が強制送還されてから、弟が生まれており、初めて一家が揃うことができた。私は日本で法律などの壁でたくさん辛い思いをしてきたが、それを乗り越えられたのは日本人に助けられたから。人の優しさに触れたから日本を好きになった。

三木:日本では外国人って言われることがあって、フィリピンでは日本から来たお客様に扱われる。フィリピン語も分からないし輪の中に入れない疎外感がかつてあった。どちらにも属してない自分。おじいちゃんに会っても言葉がわからず最初は話すこともできなかった。
 民族差別や人権軽視がどのように存在するか。私の経験で言うと、本人の自覚がないまま差別していることもある。高校生になって初めて付き合った彼氏に「俺、異文化きらいや」ってさらっと言われたことがある。本人が意識せずそういうことを言うのは怖いなと思った。

元:多文化共生が表面的に語られることが多く、法制度も含め構造的な差別が根強くなくならない。マジョリティがその状況を変えようという意思を持たないとなくならない。最後にみなさんの一言コメントを。

グェンティ:マイノリティとかマジョリティという言葉を使うのをやめてはどうか。私はマイノリティと言われると辛いし、自分がマジョリティになっても嬉しくない。マジョリティとマイノリティを分ける基準というのも絶対的なものではなくて、そのときどきで変わっていく。マイノリティとかマジョリティという言葉に縛られたままでは、いつまでも二項対立のままになってしまうのではないか。

焦:私が体験を話したのは同情して欲しいのではなく、皆さんが住む日本で何が起こっているか、外国人が何に困っているのか、皆さんに何を求めているのかを皆さんが考える機会になったらいいという気持ちからだ。周りで困っている外国人に手を差しのべてもらえたら、私が今日頑張って話して良かった
と思う。

呉:僕自身が周りの理解を必要とし、家族や友達がいなかったら、いまここでしゃべっていないと思う。大学でいろんな人たちと出会って、生きやすい空間を広げられたのが財産。そういう場をさらに広げたいし、日本人の友人たちもそうであってほしい。

三木:コミュニケーションをとるとき、その人自身を見ることが大事。何人だというフィルターを通して見ないで欲しい。いろんな人がいるからその人をきらいというのはあっていい。その人自身を見ることが必要。どんな立場の人も平等というのが、多文化共生に通じる。

元:マジョリティ、マイノリティという言葉は、私はよく使う。というのは歴然とした力関係の不均衡があるから。さまざまな基準によってさまざまなグループ間に不均衡が生じる。日本国籍という問題でいうと持つ人と持たない人の間に制度的に甚だしい不平等があって、それが人権を享受する上で大きな障害になっているのが現実だ。国籍、民族などさまざまな多様性をもつグループが平等に共に生きることが妨げられている。外国人に対して、居させてやる、いやなら帰れとなどという言説が横行している。真の共生には、「日本人」の多くが、自分の優位性と特権に気付いて、外国人と対等な関係を築くことに自覚的に取り組むことが必要だ。「純粋な日本人」などというものはなく、「日本人」はさまざまな民族的・文化的ルーツをもっている。「国籍」という線引きを無くして、みんなが対等平等に付き合える社会を実現したい。
(構成:藤本伸樹・ヒューライツ大阪)

アジア・太平洋人権レビュー2011
『外国にルーツをもつ子どもたち:思い・制度・展望』
ヒューライツ大阪編、現代人文社発行
【2011年4月刊行】
 在日コリアンから最近日本にきた多様な背景の子どもたちまで、外国にルーツをもつ子どもたちの過去と現在を読者が総合的に理解し、これから共に生きるための視点を示した。教育関係者や外国人の支援に関わる人たちに必読の一冊。

2011年5月28日(土)午後
会場:とよなかすてっぷホール(阪急「豊中駅」下車)
公開フォーラム
『外国にルーツをもつ子どもたちの人権を語る』
(仮題)
 アジア・太平洋人権レビュー2011発刊を記念して、執筆者を中心に、現状と思いそして展望を熱く語っていただきます。詳細は後日、ウェブサイトやちらしでご案内します。
共催:ヒューライツ大阪、(財)とよなか国際交流協会