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「メコン川流域開発と人権」フィールドワーク

2006年 12月「メコン川流域開発と人権」フィールドワーク実施報告 2007年1月5日
前川 実


2006年12月21日から27日まで、2007年3月に実施予定のタイスタディツアーの下見を兼ね、「メコン川流域開発と人権」フィールドワークを、北 タイ中心に実施した。

今回の調査活動の目的は、(1)タイ-ラオスミャンマー(ビルマ)-中国国境地域のメコン川流域開発の現地視察、(2)北タイ少数山岳民族の実情と持続可 能な農業振興の実情視察、(3)タイにおけるミャンマー(ビルマ)難民の実情視察、(4)バンコク市(クロントイ)スラムの実情視察、にあり、2007年 3月に実施予定のタイスタディツアーへの関係団体の協力要請を行った。視察概要及び訪問日程は、別紙のとおりで、ほぼ所期の成果を収めることができた。

1. チェンライ~メーサイ~タチレク~チェンセーン訪問記 (12/21-22)

■10年ぶりのチェンライ
12月21日午前11時10分発のTG623便で関西空港バンコクに出発。9月末に開港したスワンナブーム国際空港に午後3時半過ぎに到着。空港は新しく きれいだったが、使い勝手はもうひとつの感じ。以前のポチェントン空港より機能的になったとされているが、免税店の店は多くなったものの公衆トイレが少な く、またトランジット客の休憩スペースも狭小で、乗り継ぎ時間待ちの人々には不満が残る。到着後すぐにチェンライ行きの国内線に乗り継ごうとしたが、ゲー トで係員に静止されてしまった。理由を聞くと国内線ゲートには1時間以上前には入れないので、それまでは国際線ターミナルで時間を過ごしなさいとのこと。 要は、ショッピングゾーンに客をできるだけ長くとどめておきたいとの営業戦略と判断した次第。私はTG(タイ航空)のゴールド会員だったので、専用ラウン ジを使うことができたが、そうでない人々には不便さを感じると思った。


3時間後の午後6時20分発の飛行機で北タイのチェンライ国際空港に出発。午後7時40分にチェンライに到着し、入国手続。空港からは宿泊先のホテルの専 用車で移動し、午後9時過ぎにチェックインした。10年ぶりのチェンライの町は道路も整備され、信号も多数設置され、町には車があふれ大きなビルも建設さ れて大都会に変身していて、見違えるばかりであった。チェックイン後、ホテル近くのナイトバザールを見物。ここもチェンマイ同様に活気あふれていたが、あ いにくタイ北部は大寒波に見舞われ、外気温は3℃で、大阪以上に寒い夜であった。
翌22日早朝、チェンライ市内を散策。朝の現地のテレビや新聞は、この寒波でメーホーソンの少数山岳民族の村で凍死者が出たことを伝えていたが、朝の空気 は3℃で本当に大阪以上に冷たかった。また、チェンライやチェンマイは前首相のタクシンの支持基盤であるため、いまだに戒厳令が解除されていないところ で、それゆえ街の主要施設や交差点には軍政への支援を呼びかける看板があちこちに設置され、警備の軍人も各所に散見され、軍政下にあることを再認識した。

■国境の町メーサイとタチレク
朝食後、知人の紹介でラオス人経営の旅行会社スタッフの案内で国境の町メーサイからゴールデントライアングル、そしてチェンセーンを訪問。これも10年ぶ りの訪問であったが、メーサイまでの道路がよくなったこと、町の人口が増大していること、軍政下にあるため軍の検問が強化されていることなど、その変容ぶ りに驚かされた。

チェンライから国道110号線を真北に70km、約1時間半で国境の町メーサイに到着。午前9時半であったが、国境ゲートにはロンジン(長スカート)をま とったミャンマー(ビルマ)系の人びと、およびモン族やラフ族、アカ族、カレン族、タイヤイ(シャン)族等の少数山岳民族の人々が多数行き来していたが、 圧倒的にミャンマーからタイに入国する出稼ぎの人たちであった。まずタイ側の国境検問所で出国手続きを行い、次にミャンマー側の国境検問所で500Bを支 払いパスポートを預けて「1日ビザ」を交付してもらい、国境のメーコク川(メコン川の支流)に架かる50m程の橋を徒歩で渡ってミャンマー側の町タチレク を訪問。タチレクの町も10年前よりも人口が倍増した感じで、観光客相手の市場も規模が大きくなり、中国製品であふれかえっていた。日用品はタイ(メーサ イ)で買うより20%程度安いので、タイ人もよく買い物に来るという。市場を抜けて国道沿いに出て散策したが、自動車部品販売店や美容室、携帯電話の公衆 電話屋などさまざまな商店が軒を並べていた。さらに国境から2kmほど離れたところにあるタチレク寺院(パゴタ)まで徒歩で散策。寺院から眺めるとタチレ ク周辺では、工場や大規模施設の建設があいついでいるが、少し遠ざかるとのどかな田園風景となっていた。ミャンマーのタン・シュエ軍事政権の実像はなかな か見えてこないが、観光客の集まる市場や寺院には公安関係者とおぼしき眼光の鋭い人びとが多数見受けられた。2時間半ほど町を歩き回り、地元の市場や人び との生活ぶりを垣間見たが、中国製品があふれており、ミャンマーと中国との結びつきの強さを実感した。

その後、再び国境検問所を通過してタイに再入国。国境検問所近くで有機農業指導者の谷口巳三郎さんと合流。谷口さんは現在85歳で、熊本県職員を退職後、 訪タイされ20年にわたりパヤオ県を拠点に少数山岳民族の自立支援と持続可能な農業をタイに普及させるため活動されている方で、定期的に国境を訪問して、 ミャンマーで無農薬で持続可能な農業を推進する人々(少数民族)と交流し、指導しているということだった。翌日に農園を訪問することを約束し、メーサイを あとにした。

■ゴールデントライアングルと旧日本軍戦没者慰霊碑
メーサイから車で30分ほどで、次の目的地のゴールデントライアングルに到着。ここはメコン川がメーコク川と分岐する地点で、ミャンマー、ラオス、タイの 3カ国の国境が隣接する地点で、中国雲南省の山々も遠望できる観光スポットでもある。ゴールデントライアングル周辺は、ケ シ畑から産出されるアヘン(オピウム;Opium)の産地としてその名を世界に知られている。ケシはこの地域に自生していたとの説もあるが、歴史的はアヘ ン戦争(1841-42年)の時代にイギリスによって中国への輸出基地として栽培が奨励されて以来、この地域が世界的産地となった。またベトナム戦争 (1960-75年)の時期にタイを拠点とする米軍内でアヘンが大流行した結果、ゴールデントラ イアングルでの麻薬取り引きの需要が著しく高まったといわれる。昨今は、アフガニスタンでのアヘン生産が拡大し、またタイ政府の取り締まりが厳しくなりそ の 取引量は減っているものの、今も世界中のアヘンの約50%がこの地域で生産・取引されているという。

川沿いの食堂で昼食をとったのち、スピードボートでメコン川を約1時間ほどクルージングした。川の真ん中が国境線であるが、軍人の姿はほとんどなく、川魚 を取るタイやラオスの漁師の舟が点在するどかな風景であった。この地域にはミャンマー領の中洲(島)とラオス領の中洲(ドンサオ島)があり、前者にはカジ ノが開設されていて、タイ人や中国人がよく利用するという。また後者のラオス領の中洲(ドンサオ島)には観光客の一時上陸が可能で、20バーツを支払って 上陸してみた。島には政府所管の上陸料徴収所とラオスのお土産屋が20件程度立ち並び、観光客相手におみやげを売っていた。近年、メコン川流域開発がすす み、中国の貨物船が景洪(雲南省)とチェンセーン(タイ)間に定期船を運航しており、このときも500トン級程の中国貨物船がゆったりと中国方面へ航行し ていた。中国政府は、電源開発と水運確保のため今後も国際河川であるメコン川開発をタイやラオス政府と共同で推進し、各地で大規模ダムを建設し、将来的に は1万トン級の船の航行ができるようにする計画を進行中である。ダム建設にともないラオス北部の多くの山岳民族が強制移転を余儀なくされているという。今 回は、残念ながらその現場を訪れることができなかったが、ぜひ現場を確認したいと思う。


その後、ゴールデントライアングルを一望できるメコン川沿いの山間の寺院を訪れる。一通り見学の後、何気なく境内を散策していて旧日本軍戦死者の慰霊碑を 3基発見した。ビルマ侵攻をめざすインパール作戦失敗で敗走した旧日本軍兵士は、メーホーソンなど国境沿いのジャングルで逝き倒れとなったことはよく知ら れているが、この地でも多数の人々が戦死したことは、うかつにも知らなかった。また2005年に新しく建立された石碑のひとつには次のような文字が刻まれ ていた。私がこれまで見た戦没者慰霊碑で過去の侵略戦争への反省として地元住民への謝罪があるものはほとんどなかったため、驚きであった。


「この慰霊碑は、第二次世界大戦時に、タイビルマ方面に進駐した日本軍によって不幸にも多くの現地の人々が殺害されました。それ 等の人々を慰霊する為に建立したものです。合掌して下さい。平成十七年四月二十日 東京都世田谷区 長瀬誠一 」

■チェンセンからチェンライへ
ゴールデントライアングルから車で約30分で、古都チェンセーンに到着。チェンセーンはチェンセーン王国の都として1328年に開かれた古都で、チェン セーン様式とよばれる仏塔や寺院が残っている。現在は中国の貨物船が定期運航されているメコン川の貿易港として年々、発展しているという。港には中国船籍 の貨物船が2艘停泊していた。その後、バサック歴史公園をはじめ4km四方の城跡をぐるっと回った後、国立チェンセーン博物館を視察。14-15世紀につ くられたランナーター・様式の仏像や工芸品、少数山岳民族の民族衣装、楽器など古代から中世にいたるタイの歴史をわかりやすく展示解説していた。

その後、午後3時前にチェンセンの街をあとにし、約1時間半でチェンライの街に戻ってきた。この日の最後のプログラムとして現地NGOのPDA(the Population & Community Development Association)が運営する少数民族博物館(HILLTRIBE MUSEUM & EDUCATION CENTER)を視察。この博物館は、PDAビルの三階にあるが、日本語を含む多言語でのプレゼンテーション資料(VCD、20分)を用意しており、北部 少数山岳民族の現状についてわかりやすく解説している。また室内には、各民族の歴史資料や写真が展示され、民芸品や資料の即売もおこなわれていた。

のべ200kmにわたる行程だったが、初めてこの地を訪問した10年前とは比較にならないほど、北タイの道路網が飛躍的に整備されていることを実感した旅 だった。

2、 パヤオ県の谷口21世紀農場で谷口巳三郎さんにインタビュー(12/23)
23日朝、チェンライから車でパヤオ県の谷口21世紀農場にむかった。ガイドと運転手役のラオス出身のニーさんはモン族でもあり、少数民族の自立支援を進 める谷口さんを尊敬しており、谷口21世紀農場には何度となく訪問しているとのことで、裏道を通りながら1時間足らずで農場に到着。100mほどの山の裾 野に広がる「谷口21世紀農場」は、25ヘクタールの広さで果樹園8ha、水田5ha、畑地1.5ha、養魚池1.5ha、竹林0.5ha、自然林 0.5haであり、その外に養豚場、養鶏場、研修センターが整備されている。農場近くの道路にはチークの街路樹が整然と植樹されていて、見事な景観である。

インタビューでは、熊本県職員を59歳で早期退職後、訪タイされた経過、その後20年にわたりパヤオ県を拠点に少数山岳民族の自立支援と持続可能な農業を タイに普及させるためのさまざまな活動の様子、タイの農業事情、これからの谷口21世紀農場の活動計画など、について話を伺った。谷口さんは、長年の北タ イでの活動が評価され、1997年に外務大臣表彰を、1998年にはチェンマイのメージョ農科大学から名誉博士号を贈られ、2003年には毎日新聞社の毎 日国際交流賞を授与されたが、これまでに谷口農場で育った若者は2,000人以上にのぼるという。この中には、私の知人のモン族の青年スリヤ(元SVAス タッフ)も入っていた。

谷口さんは現在85歳だが、現在のタイの農業事情、日本を含む地球上の農業事情に強い危機感を表明し、「われわれ人類は人口の爆発的増大、食糧不足、環境 汚染など生存の危機に直面しており、有機農法を基本とした持続可能な循環型の農業をアジアに定着させるることが緊急の課題だ。」とし、農村開発および教育 (農業人材育成)にさらに力を入れ、「今後の谷口21世紀農場は、熱帯アジアで有機農法を定着させ持続可能な農業を確立させるため、タイだけではなくビル マやラオス、カンボジア、ベトナムの若者たちも集うような国際研修センターにしていきたい。」と熱く語っておられた。谷口さんの使命感と危機感に圧倒さ れ、多いに刺激されたインタビューであった。また、今回の訪問の記念にと『熱帯に生きる-在タイ20年、農村開発に命を捧ぐ国際ボランティア体験記II』 と『エイズ最前線-死の川のほとりからタイの若者を救え国際ボランティア体験記I』の著書2冊を贈呈された。また共通の友人の八木沢克昌さん(SVAタ イ・カンボジア事務所長)にも著書を贈呈してほしいと依頼され、承諾した。

インタビューのあと、住まいのそばの見事なチーク林とそのそばにある谷口式堆肥づくり養豚施設「醗酵床豚舎」の説明を受けた。子豚6頭を2×3mの塀で囲 んだ豚舎で飼育し、床にはコンクリートではなく籾殻と藁を敷き、豚の排泄物が一定程度たまると、その上に新たな藁と籾殻を敷いて重ね合わせる。一定の厚さ までたまると豚を別の豚舎に移動させ、そのまま2ヶ月ほど熟成させると見事な堆肥が出来上がるという循環型システム。「チークの枯葉も豚の排泄物もすばら しい天からの贈り物です。タイの農民がますます貧乏になるのは化学肥料に依存するからです。化学肥料に頼ることなく収益を上げるには、天からの贈り物を生 かした堆肥づくりこそ肝要です。これをメコン川流域諸国の農民に普及したい。」と、今後の抱負を熱っぽく語られた。

昼前、谷口農場を後にし、次の訪問地のメーホーンソーンに向かうため、ニーさんの運転でチェンマイ空港へ向かった。3月のツアーでは、ぜひここを再度、訪問したいと感じた。

3 メーホーンソーン~メーサリアン~メーソット訪問記 (12/23-25)

■「霧の町」メーホーソン
23日午後3時過ぎに、チェンマイ空港に到着。4時20分発のTG196便でメーホーソンに移動。タイ北部に広がる山岳地帯の盆地に開けた町メーホーンソーンは、高原の都市であり「霧の町」としても有名である。機内から見える景色は険しい山の連続であった。この山々にはカレン族、ラフ族、リス族をはじめ 多くの山岳民族の村が散在しているという。1時間足らずでメーホーソン空港に到着し、ホテルへ。ホテルは事前予約していたものの登録されておらず、マネー ジャーとひと悶着。最終的には持参したホテルバウチャーで宿泊が可能となり一安心。当初、メーホーソンには、23日昼過ぎに到着し、少数民族の村を訪問の 予定だったが、午前中にパヤオでの谷口農場訪問の日程が入ったため予定変更となり夕方の到着となった。現地の気温は5℃でとても寒かったが、2時間ほど市内を散策し、ホテル近くの町角の食堂で夕食。ホテルに帰ってバスタブを使ったが、ぬるいお湯しか出てくる気配がなく、カゼを引いてしまった。


翌24日朝は2℃まで冷えたが、早朝7時からオープンしている朝市を見物。衣類や日用品、電気製品や音楽CD、食料品などが所狭しと並んでいた。その後、 ふたたび市内を散策。チョーンカム湖のほとりに並ぶワット・チョーンカムとワット・チョーンクラーンの2つの寺院や、メーホーンソーン王国の初代王シンハ ナトラチャによって建てられたワット・プラタート(寺院)を見学。

■メーサリアンと「死の行軍」史跡

午前10時にホテルをチェックアウトし、ソンテウ(乗り合い自動車)で長距離バスステーションに行き、次の訪問地メーサリアン行きの長距離バスに乗車。バ スには2人の日本人と4人の欧米人、12人の地元のタイ人が乗り合わせていた。ミャンマー国境沿いの山道を1時間ほど走るとクンユアムに到着。道端のあち こちに旧日本海軍の旗である旭日旗をあしらった旗竿が目に付くようになる。6 2年前、インパール作戦の失敗から敗走した旧日本軍の兵士たちは、メーホーンソーンからメーサリアンにつながるこの道のあちこちで逝き倒れ、地元住民の世 話になったという。戦後60年が経過し、当時の生存者たちが遺骨を収集し、各地に供養塔を設立し、クンユアムに旧日本軍博物館を設立したと聞いていたが、 今回は立ち寄ることができなかった。心残りである。


バスは午後2時30分にメーサリアンに到着。約2 00kmの旅であったが、道路事情がよく快適なバスの旅であった。メーサリアンには谷口巳三郎さんが著書で紹介したエイズ患者のための病院などがあるが、 とても国境沿いの町とは思えないすごくのんびりした雰囲気の町である。当初は、ここからミニバスでメーソットに南下する予定であったが、メーソット行きの バスはすでに出発していて、明日の朝までないとのことが判明。仕方がないので、予定を変更し、今夜はメーソット近くのタークまで行き、翌朝にメーソットに 入ることにした。


国境沿いのサルウィン川を車窓から一瞥した後、午後4時にバンコク行きの長距離バスに乗車し、300km 先のタークへと向かった。メーホーンソーンからメーサリアンまでのバスはずうっと南下してきたが、今度は東に進路を取り、ドナ山脈を縦断して進んだ。途 中、何箇所かの軍の検問を通過し、予定通り、午後10時すぎにバスはタークのバスステーションに到着。このバスステーションで下車し、白タクで宿泊先のホ テルへチェックイン。2日ぶりにあたたかいバスタブが使え、ほっと一息ついた。翌25日朝、あいかわらず風邪で体調がすぐれないため、26日にバンコクに 移動後は1日静養することを決め、職場に帰国を1日延期する旨をfaxで報告。

■メーソットのSVA事務所訪問
25日朝8時30分、昨日のバスステーションからメーソット行きのミニバスに乗車。23人乗りのミニバスは定員オーバー気味であったが、かまわず出発。途 中、各地の停留所で乗客の乗り降りがあり、10時前にメーソットのバスステーションに到着。予定より早くついたため、屋台でクイティオ(タイ風麺スープ) を食べてSVAの中原亜紀さんの到着を待つ。


10時過ぎにSVAの中原亜紀さんが車で迎えに来てくれ、SVAメーソット事務所を訪問。事務所でミャンマー難民キャンプの事情を伺い、ツアーの受け入れ について協議。3月5-6日の2日間の受け入れについて了承を得た。


メーホーンソーンからメーサリアン、メーソットそしてカンチャナブリまで続く2 、 000kmのミャンマー国境沿いの山岳地域にタイ陸軍が所管している9箇所のミャンマー難民キャンプがあり、現在もミャンマーからの難民流出が続いている という。ミャンマーからの難民流出は、軍事政権による国内少数民族の弾圧とそれへの抵抗運動により1949年から続いているが、長期化する中、欧米などへ の第三国定住策が進められているが、難民の多くがミャンマーへの帰還を望んでいるという。今回は、クリスマス・年末休暇中で難民キャンプの訪問はできな かったが、SVAはメーソットに難民事業事務所を置き、3箇所の難民キャンプでそれぞれの住民委員会と協力して教育支援(図書館活動、出版活動、文化活 動)を推進しているという。


その後、メーソットの国境地帯を視察し、昼食の後、中原さんが手配してくれたワゴン車でピサヌロークへ向かった。メーソットからスコータイを経由してピサ ヌロークへ向かったが、道路はとてもよく整備され、途中、何箇所かの軍の検問を通過し、2時間30分ほどで古都スコタイに到着。スコータイは中国から南下 したタイ族最初の独立国家の首都で、世界遺産にも指定されているきれいな町であった。広大な広さのスコータイ遺跡公園を散策したが、王朝絶頂期の第3代の 王ラムカンヘンは、クメール文字を改良してタイ文字を考案したり陶芸を発展させたりし、今もタイ人に人気の人物である。スコータイから約1時間あまりでピ サヌロークの街に到着。ホテルに宿泊し、翌日の早朝便でバンコクに移動した。



4. バンコクのクロントイ・スラム訪問(12/26)
26日朝8:25発のPG便でバンコク空港に到着。空港で今夜のホテルを予約し、午後1時にバンコク市クロントイ・スラムのDPF(ドゥアン・プラティー プ財団)を訪問。1年ぶりに国際部長のオンさんと再会し、スラムの現状や南タイでの津波被災者支援の現状について伺い、そして3月のスタディア-の受け入 れについて協力要請した。事務局長のプラティープ・ウンソンタムさんはチェンマイに出張中だったが、オンさんの計らいで彼女とは電話で話をすることができ た。


クロントイ・スラムでは、依然として火事(不審火)の多発と住民の麻薬汚染が深刻で、最大の課題だという。特に若者の男子に麻薬禍がひろがっているため、 プラティープ財団の敷地内に消防車を格納する消防センター兼フィジカルトレーニングセンターを建設中で、若者たちが気軽にフィジカルトレーニングができる ようにしていきたいと語っていた。3月のツアーの受け入れについても快諾いただき、詳細日程について協議を進めた。協議の結果、3月3-4日にカンチャナ ブリの生き直しの学校を訪問し、3月7日にクロントイ・スラムを訪問することで了承を得た。


引き続き、SVA(シャンティ国際ボランティア会)のタイ現地法人であるシーカ・アジア財団事務所を訪問。職業訓練コースを視察のあと、旧知のアルニー事 務局長、スタッフの小林寛明さんらと面談した。ここでも3月のツアーの受け入れについて要請し、快諾いただき、詳細日程について協議を進めた。

5. 総括
今回の調査活動の目的は、(1)タイ-ラオスミャンマー(ビルマ)-中国国境地域のメコン川流域開発の現地視察、(2)北タイ少数山岳民族の実情と持続可 能な農業振興の実情視察、(3)タイにおけるミャンマー(ビルマ)難民の実情視察、(4)バンコク市(クロントイ)スラムの実情視察、にあり、また、 2007年3月に実施予定のタイスタディツアーの受け入れ協議にあった。
(1)と(2)と(4)については、ほぼ所期の目標を達しで生きたが、(3)については、難民キャンプの訪問が実現せず、今後の課題として残った。また、 当初予定していなかったが、旧日本軍のインパール作戦(ビルマ侵略)の失敗から敗走した兵士たちの戦跡慰霊碑を数多く訪れることができ、日本の戦争責任に ついて再認識する旅となるなど、有意義なものとなった。