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国際人権ひろば No.70(2006年11月発行号)

特集・持続可能な開発と人権-東南アジアの現実から考える Part4

プノンペン・バサックスラム強制移転

手束 耕治 (てづか こうじ)
(社)シャンティ国際ボランティア会(SVA)プノンペン事務所

  本誌62号でもご紹介したバサックスラムが、2006年6月6日、700人あまりの武装警官を動員して強制移転させられた。このようなことがパリ和平協定から15年経ったカンボジアの首都プノンペンの市内で、道路を封鎖し、報道陣やNGOなどをシャットアウトして行われたことは大きな衝撃をもたらした。

■強制移転と経緯


  バサックスラムは新しく建設中の国会議事堂のすぐ南に位置する絶好の場所にあるため、1996年にプノンペン市が民間企業のSSE(スオ・スロン・エンタープライズ社)に売却して以来、これまで毎年のように移転の話が出ては消えていたが、今年に入りにわかに具体化。2月には住民委員会代表らが土地のオーナーであるSSEの提案する移転地(トロペアン・アンチャイン村、市内から22キロ、15ha)を視察。
  3月20日には住民委員会代表・副代表13名と企業だけで移転地に移る契約書にサインした。ところが、企業や住民委員会が十分な説明を住民にしなかったことに加え、移転先のインフラもまったく整備されていないので、移転反対の意見が出るとともに、蚊帳の外に置かれていた行政側が怒ってこの契約を無効とした。これに驚いた企業は今度は行政側につき、これまでの移転住民リスト(1,507名)や契約を破棄。信頼を失った住民委員会は住民をまとまることができず、そのうちに行政側は戸別訪問を行って新しい移転住民リスト(1,216名)を作成してしまった。
  5月3日、移転先のインフラがほとんど未整備、水道や下水、電気もない状況で、移転賛成の住民でさえまだためらっているうちに、行政による強制移転が開始される。朝から20台のトラックと30人ほどの警官が動員されるが、住民の抵抗と、人権NGOの働きかけや多くのマスコミの目によっていったんは中止に。しかし、外部者がいなくなったのを見計らって午後から移転が再開され、20世帯が移転。5月4日以降はさらに大掛かりな移転が継続。その後も移転は強行され2週間あまりで、ほとんどの家が移転。
  一方、間借りしていた家族は移転が認められず、家の跡地に着の身着のままで放り出され、最終的にその数は約400世帯に上った。しかしながら、プノンペン市はNGOなど外部からのテントや食料などの人道支援を禁止したため、住民は地べたにゴザを敷き、雨の漏る中で寝起きするひどい状況下に置かれた。また、安心して外に働きにも行けず、子どもや妊婦の健康状況も悪化。行政側は何とか問題を解決するといっていたが、5月末になっても回答がなく、住民の我慢も限界。
  5月31日、入り口あたりに集められていた多くの世帯が、なぜか元借りていた家の跡地にどんどん戻って小屋を建てている。移転が延期になったのでは、と思ったのも束の間、午前10時半ころ、治安ガードが住民の小屋、数件を壊し、そのとき女の子の頭に壊した柱が当たって気を失った。これが死んだといううわさで暴動が発生。子どもや女性も加わって、数百人の住民が治安ガードを追い散らし、スラムを囲っていたトタンのフェンスを叩き壊して、スラムの中にあった行政出張所に放火。その後、治安ガードも警察もスラムに派遣されず、住民は出入り自由に。5月3日以降移転させられた家族も移転地が遠くて生活ができないため、再びバサックスラムに戻って来る。また、ほかのスラムからもひょっとして土地がもらえるかもしれないという期待で続々入ってくるなど、収拾がつかない状況に。しかし、この間行政側は着々と鎮圧、強制移転の綿密な計画を練っていたようだ。
  6月6日、午前3時、数十台の車両に分乗して、警棒や盾、ガス銃を持った700人余りの警官が現場付近に到着。午前4時半ころ、スラムの西側から展開。まず抵抗する住民9人を逮捕し、6時ころから強制移転を開始。圧倒的な力の前に抵抗することのできなくなった住民は行き先も告げられず、トラックに家財道具を積みこみ、どんどんとどこかに運ばれてゆく。スラムに通じる道路はすべて数百メートル手前から封鎖され、一切立ち入り禁止。写真撮影も厳禁の徹底した厳戒態勢がしかれ、これに従わなかったマスコミ関係者1名と住民1名が逮捕された。
  トラックの後をつけて新しい移転地(アンドン村、市内から17キロ、3ha)に着くと、まったくインフラ整備がされていない土地に次々に住民が運ばれてくる。この日のうちに移転したのは900世帯、最終的に6月15日現在、ここに移転させられた住民は1,820世帯にも上る。行政は全世帯に2キロの米としょうゆ、400世帯にテントとポリバケツを配布したが、井戸は近くの村に1本しかなく、給水車で飲料水を運んでいる。仮設トイレはなんと6つのみ。下水設備はなし。

■強制移転その後


  5月3日の第1回目の強制移転の頃からカンボジアの人権NGOは住民の声を代弁し、移転地のインフラを整備してから移転を行うように行政に働きかけていたが、聞き入れられることなく6月6日の大規模強制移転が起きた。この事態を重く見たNGOは6月13日に開催されたカンボジア政府支援国調整委員会の会議に緊急提言書を提出したが、カンボジア政府はその後も、プノンペン市やシハヌークビル市で警官を動員した強制移転を繰り返したため、7月4日には人権、居住権などのカンボジアの3つのNGOネットワークが各国大使館や国際機関に対し、強制移転がカンボジア政府の掲げる「貧困削減」と矛盾しており、カンボジア政府に対して強制立ち退きの中止と土地所有の保障を守ることを促してもらいたいとの要望書を送った。
  一方、移転先の状況であるが、最初の移転地(トロペアン・アンチャイン村)には学校や市場も建設されている。しかし、バサックからの住民が本来1,216世帯住んでいるはずが、9月現在323世帯しか住んでいない。市内から遠くて生活できないため、ほかのものに土地を売り渡したり、初めから部外者に分譲されてようで、1,669世帯分あるという区画の3分の1くらいが空いている。また、2番目の移転地(アンドン村)は劣悪な生活環境が続いている。住民インタヴューが行われ、バサックスラムから来たことが確認された306世帯には土地が割り当てられたが、残りはインタヴューの予定もなく1,000世帯ほどが捨て置かれ、数百世帯はすでに市内のスラムに戻ったようだ。食料や水の配給は終わり、自分たちで買わねばならない。20個設置されたトイレはすでに汚物でいっぱいで使えなくなっており、ごみの収集サービスもなく衛生環境は劣悪である。行政側の将来計画は依然として不明確のままである。

■強制移転からスラムの生活環境改善へ


  2003年にフンセン首相は毎年100のスラムの生活環境を改善すると言う声明を出したが、これまでNGOと協力して99箇所が改善されたにとどまる。また、今年に入り強制移転が続発しており、懸念される状況になってきている。スラムを郊外に移転しても、十分なインフラが整っていないと新たにスラムを作るだけであり、そこに仕事がなければ住民はまた市街地のスラムに戻ってしまう。無理な移転はしないようにすべきであり、実際プノンペンの中心にあるボレイケーラーという大規模スラムは行政、住民、企業が話し合い、移転しないことに合意し、高層住宅を建設中である。
  また、隣国のタイは現在ではほとんど強制移転を行っていない。その背景には、スラム住民の長年にわたる闘いがあり、住民の組織化、意識改革によってスラムの住民自身が力をつけたこととともに、マスコミなども積極的に取材して、タイ社会がスラム問題を認識し、政府も方針を変更せざるを得なくなったということがある。この流れはちょうどタイの民主化の道のりと一致する。
  カンボジア政府にはスラム住民の基本的人権を守るとともに、地方から不法に流入した者と見るのではなく、都市の発展の底辺を支える必要不可欠な労働者であるという認識を持って、住民の生活環境改善をNGOや各国援助機関などと協力して推進してもらいたいと思う。