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国際人権ひろば No.69(2006年09月発行号)

特集:市民の視点から考える日比国交回復50周年 Part3

50周年を迎えた「日比国交正常化」の内実を問うフィリピン日系人

大野 俊 (おおの しゅん)
豪州・アジア太平洋社会変容研究センター(CAPSTRANS)客員フェロー、元フィリピン大学客員教授

■戦後60年を経ての就籍・新二世支援運動


  日本とフィリピンの国交正常化50周年を迎えた2006年の夏、フィリピン全土に散らばる日系人たちの全国組織「フィリピン日系人会連合会」は二つの重要な方針を決めた。一つは、戦前の日本人移民である父親の身元がいまだに判明しない日系二世、延べ百人が07年春までに東京家庭裁判所に対して、新たに本籍を設定して戸籍をつくる「就籍」の申し立てを行い、日本国籍の「回復」を目指すこと。もう一つは、フィリピン女性エンターテイナーの日本出稼ぎ現象とともに激増した「新日系二世」の実態を調査し、日本人の父親が養育を放棄しているケースについては、日本での肉親捜しや戸籍捜しなどについて支援活動を行う、というものである。
  このふたつの動きは、日本とフィリピンという「二つの祖国」の間で運命を翻弄されてきた日系人たちが、戦時・戦後の混乱の後遺症もあっていまだに「日系人」であることを証明できない仲間の救済を法的手段で行い、なおかつ、戦争で日本人の父親を失った自分たちと同じような運命をたどりかねない未成年の新二世についても、同じ「フィリピン日系人」として経済的・社会的地位を引き上げようという意思の表れである。それはまた、国交回復から半世紀を経た今も、日本人とフィリピン人の関係が「正常」とは言いがたい状態にあることの反映でもある。

■フィリピン日系人の誕生と戦争動員


  「フィリピン日系人」とは、ルソン島北部の避暑地バギオに通じるベンゲット道路建設に従事した「ベンゲット移民」を嚆矢とする、戦前期フィリピンへの日本人移民の末裔たちである。日本人移民は主要都市を中心に農業、商業などの産業に従事した。中でも、マニラ麻栽培の世界的中心だったミンダナオ島ダバオの日本人社会は、アジア太平洋戦争開戦前には約2万人に膨れ上がり、日本人男性とフィリピン人女性との結婚も続出した。その数は300組余りと推定される。
  バギオではイバロイ族やカンカナイ族、ダバオではバゴボ族などの先住民との結婚が多かった。それは、先住民が所有の土地で日本人の入植が進んだ結果でもある。日比カップルからは大勢の子どもが誕生した。1939年の比政府の国勢調査では、母親がフィリピン人の日比国際児(20歳以下)は全土で2,358人が確認されたが、現実にはこの数字をはるかに上回る国際児が生まれた。
  こうした日系二世の多くは、各地の日本人会が経営する全日制の日本人小学校に通い、「日本人」としてのアイデンティティを植えつけられた。真珠湾攻撃後まもなくフィリピンを占領した日本軍は、現地の言語や文化もわかる二世や父親の一世を、通訳、宣撫などに活用した。「反日分子」を摘発する自警団メンバーになった二世も少なくない。戦局が悪化してくると、児童も工場労働などに動員され、「大東亜共栄圏」建設の一翼を担わされた。日本軍の圧制に苦しむフィリピン人にとっては「ジャパニーズ・メスティーソ」(日本人の混血)も敵視の対象となった。戦後の日系人迫害につながるフィリピン人の反日感情は、住民虐殺を含む日本軍の占領中の行為に起因していることを確認しておきたい。

■戦後の日系家族離散とアイデンティティ隠し


  日本軍・米比軍の激戦地となったフィリピンでは、同政府調べで111万人余りの市民が犠牲となった。日本人は兵士、民間人とも日本送還の対象となり、彼らが所有した家屋、家畜などの財産はすべて没収された。また、日本軍に協力した日系二世の一部は戦争犯罪に問われ、憲兵隊の通訳をしたバギオ出身の日系二世は山下奉文・第14方面軍司令官ら日本軍の大物とともに処刑された。
  日本人のフィリピン人妻とその子どもたちの戦後の扱いについては、米軍は明確な方針を確立しなかったようだ。合法的な結婚の場合、当時の日比の国籍・市民権法にしたがって、フィリピン人妻は「日本国民」になったから、本来は日本送還の対象だが、現実には大多数の妻は子どもたちとともに現地に居残った。(1)親族も知人もいない日本で子どもを養育できそうにない、(2)地元の親族や夫も、日本での生活の不安から、日本行きに反対-などが理由である。しかし、二世の中には「母親も日本渡航を望んだが、米軍が許さなかった」と証言する者もいる。一方で、少数ながら、日系家族ゆえの迫害に耐えかね、日本への「引き揚げ」を決断したフィリピン人妻もいる。
  戦争は、それまでの日本人移民とフィリピン住民の友好関係を断ち切り、日系家族を二つの国に引き裂いた。二世は兄弟姉妹が送還か残留かで居住国が分かれ、赤塚俊夫・民子兄妹のように、戦後の再会に60年の歳月を要した家族もある。現地残留の二世は、両親が日本人の戦争孤児も含めて3,000人以上(フィリピン日系人会連合会が2005年7月時点で掌握しているのは2,972人)と推定される。日比の国交は、1956年に日比賠償協定とサンフランシスコ講和条約が比上院で批准されて「正常化」した。しかし、フィリピン人の反日感情は当時も根強く、日本企業の活動や日本人の永住は基本的に禁止されたままだった。日比間の人の往来が途絶え続ける中で、現地残留の妻子が日本人の夫や父親と再会を果たしたケースは少数である。ダバオでは4年前、戦場に駆り出されて音信を絶った日本人の夫の生存をひたすら信じて再婚もしなかった80歳すぎのバゴボ女性に出会ったことがある。一方、二世たちは、迫害を恐れて日本名をフィリピン人名に変え、ある二世の言葉を借りれば「ネズミのように身を潜めて生きてきた」のである。

■日本出稼ぎ現象の中で広がる経済格差


  日系人会は、1960年代後半以降、ダバオ、バギオなど各地で組織されたが、活動が活発化したのは、1992年にダバオで初の全国大会を開いてフィリピン日系人会連合会を立ち上げて以降である。連合会傘下の日系人会は全国に十数あり、三世は1万人余り、四世は3万人余りと推定されている。「フィリピン日系人」というアイデンティティの覚醒の背景には、いくつかの要因がある。フィリピン人の対日感情が好転し「日本人の子ども」であることを隠す必要がなくなったこと。元従軍慰安婦をはじめとする戦後問題が日本でクローズアップされる中で、マスメディア、弁護士、国会議員らが戦後未処理問題の一つとして日本政府に取り組みを求めたこと。さらには、1990年の日本の出入国管理法改正で、日系二世・三世に職種に制限のない長期就労が認められるようになったことも大きい。その後、日系人会の主要活動は、「日系人証明」に必要な日本人の父や祖父の戸籍を探しあて、戦後転落した生活再建のため、若い日系人に日本で就労させる道を拓くことになった。
  日本にはいま「定住者ビザ」を持つフィリピン人が2万人以上いるが、この半数以上が日系三世・四世とその家族(配偶者と子ども)とみられている。彼らは、日本で得た「出稼ぎマネー」で一族の生活向上を図っている。しかし、戸籍の所在がわからず、子孫を日本に送り出せない二世はまだ約800人もいて、戸籍特定組と戸籍未特定組の経済格差が問題になってきた。「就籍」は戸籍未特定組の二世救済のための最後の手段である。すでにダバオの二世姉妹二人が東京家裁への申し立てで、06年2月に就籍許可の判断を勝ち取っている。

■繰り返される「日系人問題」


  日系人会連合会が今回、取り組みを決めた新二世の問題は「旧二世」の問題とは様相が異なる。後者は、開戦という日本政府の判断の帰結として家族離散などの悲劇を招いたが、前者は、日本人の父親の養育責任放棄多発で社会問題化してきた民事的問題である。しかし、母子家庭の経済困窮、戸籍が未特定のためのあいまいな国籍など、直面している問題は新二世も旧二世も同じである。連合会は、母子家庭になっている新二世を2万人前後と推定している。連合会会長の寺岡カルロス氏(75)は「二世は自分たちの過失によって生まれたのではない」と筆者に述べ、日本国民の新二世については教育をはじめとする支援を日本政府の責任として行うよう要請する考えだ。戦争でフィリピン人の母と兄弟妹4人を失い、戦後、引き揚げた日本では戸籍未登載を理由に「無国籍者」として扱われた寺岡氏の言葉を重く受けとめたい。

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