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国際人権ひろば No.62(2005年07月発行号)

特集:戦後60年のいまと未来を考える Part1

置き去りにされた日本人-中国残留孤児

もず 唱平 (もず しょうへい) 作詞家

中国残留孤児と私のかかわり


  2005年6月12日の深夜。正確には13日の午前1時。締切りの迫っていた詞稿が大方かたづいたので一息入れることにして、TVのリモコン・スイッチを押した。
  この時間、スポーツ・ニュースでプロ野球のセ・パ交流戦の総括でもやってはいまいか?そんなつもりだった。と、飛び込んできたのが中国残留孤児たちの、国を相手取った集団訴訟のドキュメンタリー番組。
  驚いた。番組の内容について驚いたのではない。そこに旧知の人を発見したからである。その人は張起さん。言うまでもない残留孤児のひとりで、本名を小川邦雄さんという。
  私が20年前の1985年春、中国・東北地方の大都市、長春市で逢った産婦人科医である。この時は張起さんだけでなく、何人もの残留孤児、何十人もの養父母に逢ったのだけど、張起さんは格別な人だった。というのも、残留孤児のほとんど全てが望郷の念やみがたく、未だ見ぬ祖国、日本に帰国したいという中で、唯一帰らないといった人であったからである。
  残留孤児たちが親や血縁を捜す目的で日本に帰国、いや渡航してくるようになったのは1981年。その5年後に中国東北地方に私は旅することになる。
  物見遊山のつもりで行った訳ではない。私のパーソナル・ヒストリーに関わる理由であって、妻を帯同して深刻な思いで旧満州へ北京から汽車の旅をした。そもそもは残留孤児を育てた中国人養父母たちに対する母親の思い入れからであった。
  母親が言った。「一つ間違ったら、お前はTVの中から○好。日本の父よ母よ、私を見つけてください、と言っていたかも知れない」。
  中国残留孤児の親探しキャンペーンが始まって我が母親は落ち着きをなくした。新聞に載る孤児たちの写真を何度も見る。TVからの呼びかけ時間には欠かさず画面を睨む。ひょっとしたら縁のある人がいないか。無論、我が家に事情があってのことだ。
  私の父親は、鉄道省というところにいた。そこから南満州鉄道の系列会社、華北交通というところに出向することになって、一家で「外地」に居を移すことになった。しかし、私は1歳の乳呑み児。年子の妹は母親のお腹の中ということで父親は単身赴任した。
  「外地」に赴いたのは我が家の父だけではなく、父の同僚の何人もが転勤することになったのだが、他家は家族連れ。
  母親が「一つ間違ったら‥」というのはこの事情をさしてのことである。「何某さん一家の消息が分からない。何家の子どもさんたちは?」「お前がせめてヨチヨチ歩きの年頃で、妹がお腹にいなかったら十中八九、日本を離れていたに違いない。そんなことを考えると、残留孤児になっていた可能性は高い」と私を指差し母が言う。
  孤児たちの呼び掛けが始まって追い追いと親や肉親が名乗り出るようになり、親子の対面シーンなどがTVで紹介されたりすると母親は我が事のように喜び、目頭を押さえることがしばしばだった。

中国・東北地方への旅


  そのうちに母親が難題を吹っ掛けることになる。「肉親が出逢えるのは喜ばしいが、孤児たちが日本で生みの親と暮らすとなると、育ての親はどうなるのか?」。
  私には答えようがなかった。親子の縁ということになれば圧倒的に養父母との生活が長い。新しい悲劇が生まれるのでは?我が母親の心中に生まれた懸念である。
  母は実の母と養い親の二人の母親を持つ身であったから、殊のほか気になったのだろう。懸念はもっともなことで、私は同感の意を表した。それが引き金となった。「それなら確かめといで」。私の中国・東北地方への旅はこんなことの次第で始まったのである。
  しんどい旅だった。妻の旅行気分は長春市に着いたとたんに吹っ飛び、にわかに寡黙になり、私は眠れない夜が続いた。
  孤児たちが言う。「自分が選択した境涯ではない。この不遇は軍国日本の継承国である今の日本が救ってくれて当然ではないのか」。
  養父母たちは「育てた子どもたちが望むのであるなら、喜んで帰しもしよう。けれどあの子を心の支えにしてきたのに、子に去られた私たちは何に幸せを求めたらよいのか?」と嘆く。
  戦後36年もほったらかしにした残留孤児問題。涙の由って来る所以はこの等閑にした年月の長さにある。いま、アジアの近隣諸国から歴史認識を問われているけれど、自国民に対してこれほどに認識を欠いていたのだから、外からの厳しい指摘は当然のことだろう。
  歴史認識については鈍感でも、近世我が国は歴史の清算にはかなり性急かつ利己的にケリをつけてきた。
  残留孤児問題も例外でない。1959年に孤児たちを死者として扱える戦時死亡宣言制度を制定し、身元調査や帰国援助の政策を一旦は放棄した経緯がある。
  中国だけではない。フィリピンやインドネシア、サハリンに残された残留日本人に対しても、棄民政策といっても言い過ぎではないほど酷い対応をしてきた。
  この度の残留日本孤児たちによる国家賠償訴訟に裁判所はどんな判断をくだすのか。全国13地裁のうち大阪は7月6日に判決が出る。どのような判決が出るにしても36年間、孤児たちは異国で置き去りにされた同朋であったということを考慮に入れたものでなくてはならないと思う。

取り戻せない36年間とこれから


  帰国した孤児たちについて国は無策であったかとういうとそうではない。今までに帰国直後の援護、6ヵ月間の定着促進センターでの日本語指導や生活習慣の指導、それに就職相談に乗る用意をした。それに引き続き定着自立努力の支援策も考えた。公営住宅への優先入居や通訳の派遣がこれにあたる。生活保護や国民年金の特例措置もある。
  しかし、考えてみてほしい。これらは四十路を越えた人間に対してようやく立ち上げた施策だ。せめて20年早く孤児と向かい合っていたら、今日まで涙が残ることはなかったのではないか。
  10代、20代なら新しい環境に馴染むにも時間がかからない。言葉を覚えることについてもそれほど困難を伴わないはずだ。返す返すも悔やまれる戦後の36年間であった。
  私自身、この問題の第三者ではありえない。個人的にも一国民としてもこの度の訴訟の関係者である。何をしたらいいのか。とりあえず、元、張起さん、現在の小川邦雄さんに逢って、その後の20年間に彼の身の上に起こったこと、彼が考えたこと、何より養父母に対する恩義から帰国しないといった彼の心境の変化について尋ねてみたいと思っている。
  戦争では何の決着もつかない。それどころか、その災厄は何十年、いや何世代にも亘って残ることを、この度の訴訟で思い知らされた。
  それにつけても、今一つ想わないではいられないことがある。養父母たちのことだ。何人この世に残っていることやら...。
  当職が中国・東北地方の養父母に捧げた"桜"という歌がある。浜圭介さんが作曲してくれて、川中美幸さんが歌ってくれたけど、これももう廃盤になりそう。時の移ろいは本当に酷い。機会があれば読者諸氏に聴いてもらいたい。誌面を借りて歌詞のみ披露し、先立たれた養父母に追悼の意を改めて表する。

中国・東北地方の養父母に捧げる
- 桜 -

逢っておいでよ 孝行しておいで
お前は預かりもんだから 帰さにゃならん
涙の笑顔でいうひとの
まるい背中を夕陽が染める
媽々(まま)よ 謝々 媽々よ 再見 ありがとう

生みの親御に会ったらこの養母(はは)が
肩の荷 おりたと言ってたと 伝えておくれ
思いを振り切るためなのか
無理に気丈なそぶりをみせた
媽々よ 謝々 媽々よ 再見 ありがとう

春になったら桜が咲くそうな
日本の様子や花便り 寄こしておくれ
何にもいうことないけれど
無事に達者に暮らせと泣いた
媽々よ 謝々 媽々よ 再見 ありがとう
大阪地裁は7月6日、原告側(残留孤児)の請求を棄却した。原告側は控訴する方針だ。