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国際人権ひろば No.61(2005年05月発行号)

アジア・太平洋の窓【Part1】

血と涙の背後に「歴史の構造」~ベトナム戦争終結30周年の思い

井川 一久 (いかわ かずひさ) 大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員教授

人命と人間の尊厳の破壊を極めたベトナム戦争


  第2次インドシナ戦争(いわゆるベトナム戦争)は、現代史上最大の局地国際戦争だった。この戦争で使われた弾薬は、米軍のそれだけでも第2次世界大戦の2.8倍(日本に落とされた原爆のTNT火薬換算量)に達した。日本から九州を除いたほどの面積しかないベトナムは、地形も変わるほどの焦土となった。ベトナム人6人に1トン-これほどの密度で火力の行使された戦争は、今までのところ空前絶後だ。
  もちろん、ベトナムの社会構造も激変した。北緯17度線以南の南ベトナム(ベトナム共和国=RV)では都市部の人口が農村部を上回り、以北の北ベトナム(ベトナム民主共和国=DRV)では逆に都市部の人口が減って農村部の人口が激増した。米軍と米同盟国軍が、南では農村部を中心とする南ベトナム解放民族戦線(NFL)の「解放区」を破壊して無人化しようとし、北ではDRVの抗戦能力を奪おうとして主に軍事・行政機関の所在地、工業基地、そして輸送路を狙って徹底した空爆と艦砲射撃を行ったからだ。
  特に南には、都市部に集まった膨大な人口を米側諸国の援助で養うという奇形の、つまり純消費型の経済・社会構造が定着した。といっても、当時の南ベトナムのような農業国の都市部には、農村部からやってきた老若男女がまともな仕事で食ってゆけるような職場はほとんどなかった。25万人という、これまた現代史上最多のアメラジアン(米兵とアジア女性との子ども)の発生源となった「慰安女性」や、サイゴンなど大都市の名物となっていた乞食と戦争難民の子どもたち(男の子は慨して靴磨き、女の子はピーナッツ売り)は、この特異な経済・社会構造の産物だった。
  ちなみに、「慰安女性」はサイゴン・ザディン地区(南の首都圏)だけで38万人もいた。同地区の人口(350万人)の実に1割以上だ。1970年代初頭、朝日新聞支局長としてサイゴンの街々を歩くとき、私は同じような奇形の「軍事基地依存経済」に苦しんでいた沖縄(それはベトナム戦争における米軍の最大後方支援基地で、私はそこでも支局長を勤めた)を思い出していた。
  前置きが長くなった。こんなことを書いたのは、米国という世界最大の軍事国家の行動範囲にどういう異常な社会現象が残るかを、ちょっとだけ知っておいてもらいたいからだ。日米同盟関係の重要性はわかる。だが、同盟相手の習性と、その習性のもたらすものを知らなくては、日本人たるものアジア共同体の有力メンバーとして少々恥ずかしいのではあるまいか。ベトナム戦争は、このパートナーの性質を知るための何よりの教本だろう。

戦争終結の瞬間


  その米国は、ベトナムで初めて敗れた。敗れた、というのが戦争における勝敗の基準に照らして不適切なら、ベトナム民族を屈服させることができなかった、と言い換えよう。そのことが立証された1975年4月30日の午前11時半、私はサイゴン都心のRV大統領官邸(通称「独立宮殿」)の前に立っていた。NFLの二色金星旗を掲げた戦車隊(実はDRVの正規軍すなわち人民軍の戦車隊)が続々と到着し、続いて歩兵部隊が来た。戦車隊と並行してきたサイドカーから一人の上級士官が降り立ち、丸腰で微笑しながら「独立宮殿」に入り、RV最後の大統領ズオン・バン・ミン将軍と握手した。それがベトナム戦争終幕の儀式だった。
  ミン将軍は1963年に徹底反共のゴー・ディン・ジェム政権をクーデターで倒したのち、NFLとの和解を志して当時の米ジョンソン政権によって排除され、米側とNFLのどちらにも属さない第三勢力の指導者としてサイゴン無血開城のため3日間だけ「独立宮殿」の主を勤めた人物だ。余談だが「宮殿」正面の鉄扉は、その内側から出てきた人物によって開けられていた。戦車が鉄扉を破って突入する勇ましいビデオ画面は明らかに後日の作為だ。
  この終戦の場に居合わせた日本人は私だけだ。その日のサイゴンには約20人の日本人ジャーナリストがいたが、彼らはなぜか全く姿を見せなかった。
  戦車隊の兵士らは「宮殿」前の芝生に車座を組んで昼食の準備にとりかかった。サイゴンの男女市民が集まってきた。彼らは米飯とヌックマム(魚醤油)しかない兵士らの食事の貧しさを見かねて、次々に焼魚などを運んできた。実にのどかな、とてもあの苛烈な戦争の終わりの時とは思えない光景だったが、私は不思議とは思わなかった。ベトナム人の世界に本来南北の別はなく、外国勢力の介入による戦乱が終われば敵意も違和感もあっけなく消えるに違いないと、それまでの取材で確信していたからだ。
  戦後の、つまり統一ベトナムの統治者となったのは共産党だ。そのことによるイデオロギー的確執がなかったわけではないが、この国は第3次インドシナ戦争(ベトナム・カンボジア戦争、中越戦争、カンボジア武力紛争)の苦難と冷戦終結ののち、ドイモイ(刷新)の新路線による国家再建に成功し、今や東南アジアのタンロン(昇り龍)といわれるほどの経済成長率を誇る国となっている。そこにはベトナムを北部、中部、南部の3地域に分ける伝統的意識はあっても、もはや南北対立というような戦時意識の残滓はほとんどない。
  ともあれベトナム戦争終結・南北統一の現場に唯一の日本人として立ち会うことのできたのは、戦争ジャーナリストとしてこの国の悲劇を見続けた私にとっては、いま思い出しても胸躍るような体験だ。私は1970年代最後のフランス航空機で陥落1週間前のサイゴンに入ったのだった。そのあと数週間の体験にまさる感動的体験はない。
  ただし、それは単純な感動ではなかったと付け加えておこう。あの戦争で400万人以上のベトナム人が不慮の死を遂げた。ベトナムの大地は、今も無数の愛と死の記憶をとどめている。今なお残る家々と樹木には、無量の血と涙が染み込んでいる。それが感じ取れないようでは、あの戦争を論ずる資格はない。もう一つ、この資格についていえば、歴史というものをどうとらえるかが問題だろう。

歴史を直視することから始まる未来


  人間の歴史は、大小無数の人間行動が有機的に織り成す全体構造だ。ベトナム戦争のそれを簡略にいえば、冷戦に巻き込まれたナショナリズムの悲劇ということになろうか。だからこそベトナム戦争は「局地化された第3次世界大戦」といってもおかしくないほどに惨烈かつ大規模な戦争になったのだ。その戦争の歴史を「加害者対被害者」というような二項対立の法廷的図式(善悪対立図式)で裁断してはなるまい。だが、今でも、そういう図式でしか歴史を見ない人が、この日本には余りにも多い。
  さらにいっておこう。ベトナム戦争ののち、この国はこれまた国際社会によって強いられた第3次インドシナ戦争に苦しみ、「国際孤児」として極貧の淵に喘いだのだが、その間、私たち日本人は、この国のために何もしなかった。ベトナム戦争で米国を最も強く支え、主要武器以外の軍需物資の相当部分と領土(沖縄)を提供した「間接的参戦国」-従って「半世紀不戦」などを誇る資格はない-だったというのに。そればかりか、私たちは第3次インドシナ戦争では中国とその代理政権だったカンボジアのポル・ポット「大虐殺」政権の側に立ってベトナムを徹底的に痛めつけたのだった。
  彼らは恐らく無知ゆえにそうしたのだろう。歴史を善悪二元の図式で裁こうとする者は、このようにいつかは必ず自己を貶めるのだ。歴史が全体構造であることを肝に銘じ、その構造を直視しよう。その努力を通じてしか、過去の歴史は未来の歴史に役立たない。