MENU

ヒューライツ大阪は
国際人権情報の
交流ハブをめざします

  1. TOP
  2. 資料館
  3. 国際人権ひろば
  4. 国際人権ひろば No.51(2003年09月発行号)
  5. 人権教育としての多文化教育

国際人権ひろば サイト内検索

 

Powered by Google


国際人権ひろば Archives


国際人権ひろば No.51(2003年09月発行号)

コラム世界の人権教育

人権教育としての多文化教育

平沢安政 (ひらさわ やすまさ) 大阪大学大学院人間科学研究科教授

 多文化教育や人権教育のあり方について、とくに最近さまざまな議論が行われている。グローバリゼーションの進展や人権意識の広がりが、多文化共生の哲学や人権文化を世界中に根付かせる必要性を高めているためである。
 多文化教育について、しばらく前までは「世界の多くの文化について教える教育」であるかのようにとらえる誤解も一部にはあったが、しだいに「多文化教育は社会の周辺に位置づけられてきた文化的・エスニック的マイノリティの権利を擁護する教育」であると同時に、「多文化共生が求められる今の時代を生きるすべての市民にとって不可欠な知識、スキル、態度を育てる教育」としてとらえる認識が広がってきた。これはマイノリティ教育の戦略であるとともに、教育全体を人権と民主主義の観点から作りかえるための戦略として多文化教育をとらえようとするものである。その意味で、今日多文化教育は同和教育、環境教育、地球市民教育、男女共生教育などとともに、人権教育の重要な一翼を担うものとして位置づけられる。
 しかし、多文化教育には多文化教育としての固有の歴史と力学があり、人権教育として一般化できない側面ももっている。そこで、多文化教育が発展してきた経緯を振り返ることにより、人権教育との関係性について考察することにする。

■ 多文化教育の「功罪」


 多文化教育は、各国の社会における非主流集団の異議申し立てを通じて台頭し、広がってきた。例えばアメリカでは、白人中心の社会秩序が長らく続いた中で、自らの生きざまやアメリカ社会への貢献を正統なものとして承認させようとした黒人たちの運動を契機に、これに触発される形で立ち上がった他のさまざまなマイノリティ集団をも巻き込みながら、1970年代に多文化教育という枠組みがつくられていった。そして、80年代から90年代にかけて多文化教育は制度的に確立され、保守勢力の批判にさらされながらも、アメリカの教育界に着実に浸透してきた。このような経緯は、他の国々においても大なり小なり共通するものである。
 多文化教育の広がりを支えてきた理念は、集団間の平等と社会的公正の確保であった。そして、その根底にあったのは集団としての承認要求であり、したがって集団の力学が強く作用してきた。しかし、そのような集団の力学は、集団的同質性を前提としながら制度改革や格差是正に向けた異議申し立てを行うため、しばしば集団内の多様性を軽視するような傾向ももってきた。
 例えば、アメリカの黒人たちの間から、1980年代末頃に「黒人による黒人のための教育」を求める黒人中心主義の主張が広がり、そのことが多文化教育を批判する勢力によって「分裂の企て」だと批判されたのだが、その過程において黒人中心主義を正当化する議論として持ち出されたのが、黒人の人種的優秀さや黒人文化の固有性の主張であった。「黒人には黒人固有の文化がある」という主張は一見正当なものであるが、そのことを理由にして「白人には黒人の教育はできない」「白人は黒人をだめにする存在である」というようなカテゴリカルで(ひとつの範疇でまるごとくくってしまう)、対抗的な主張が行われると、集団の固有性を強調することが集団間の対立を促進することにもつながりかねない。
 また、黒人といってもその集団構成員は多様な個人であり、それらの個人は黒人という属性と同時にさまざまな他の属性や特徴を多様にもっており、黒人であることに対する当事者の意味づけも多様である。つまり、黒人だからといって、すべてが黒人であることをその第一義的なアイデンティティとしているわけではない。そのため、多文化教育の中で黒人対白人という図式を強調することは、文化間の対立を刺激すると同時に、集団内の多様性を見えにくくしたりすることにもつながるのだ。

■ 多様性教育と多文化教育


 近年、そのような集団間関係の力学や集団と個人の関係についての新しい見方が広がる中で、多様性教育(diversity education)という枠組みによって、個の多様性や個を構成する多様なアイデンティティ要素に注目するとともに、集団間・個人間の諸関係を規定する権力の作用に対する批判的認識を育てることをめざす取り組みも広がりつつある。そして、多文化教育が集団の力学を中心に成り立ってきたのに対し、多様性教育は個のレベルに軸足をすえて集団間力学や権力関係をとらえようとするものだとしてその独自性が主張されている。
 確かに、多文化教育の言説においては、集団ベースの議論が中心に位置づけられ、例えば教員養成課程などで用いられている多文化教育の教科書の中には、アフリカ系、スペイン語系(ヒスパニック)、アジア系、先住民(インディアン)という具合に集団ごとの文化の特徴を記述し、それぞれの文化の独自性を説明するような構成になっているものが多い。へたをすると、集団がそれぞれ異なった学習スタイルや生活文化をもっていて互いに相容れない存在であるかのような印象を与えたり、それぞれの集団に属する個人をその集団の特徴によって同質視させたりするようなことにつながりかねない面がある。したがって、多文化教育がそのような傾向をもつことへの批判として、あるいは多文化教育のそのような側面を補完するものとして、多様性教育が独自の観点や手法を発展させていることは歓迎すべきことである。
 ただ、言説レベルでは集団の力学が前面に出る場合が多いものの、学校における実践を見る限りでは、「どのような文化/生活のバックグラウンドをもっていても、その子どもを歓迎的に受け入れ、ありのままで安心していられる居場所を学校環境の中で与える」「ひとりひとりの良さや強さを見いだし、それを中心に子どもをエンパワーすることによって、肯定的な自己概念や高い自尊感情を育む」「学校での学びや体験を通して、学校を超えた社会や未来に夢と展望がもてるような教育を大切にする」といったことが多文化教育学校(multicultural education school)に共通する特徴であり、必ずしも集団へのまなざしが個に対するまなざしを凌駕するようなことにはなっていないように思われる。そして、このような現実の多文化教育実践は、人権教育においても大切にすべきポイントを的確におさえているといえるだろう。

■ 集団と個人レベルの両方からのアプローチを


 以上のようにとらえるなら、多文化教育は「文化」の視点から教育環境や教育実践のあり方を解剖し、文化の差異を尊重するとともに、文化間のダイナミックな相互作用を通じて教育の民主化をはかろうとする営みであるといえるだろう。そしてそこには集団レベルからのアプローチと個人レベルからのアプローチが現実には共存しており、その双方向のダイナミズムを生かすことによって、人権と民主主義に資する教育改革に新たなエネルギーを吹き込もうとしているのである。言い換えるなら、多文化教育は多文化共生という理念に導かれながら、人権教育の実体化をはかろうとする戦略なのである。
 同和教育は部落差別の撤廃と差別に制約されない生き方をめざしながら、環境教育は自然と人間の共生をめざしながら、男女共生教育はジェンダー間の平等が確保された社会づくりをめざしながら、地球市民教育は地球社会の未来を担う資質を備えた人間づくりをめざしながら、というぐあいに、それぞれ異なったベクトルをもちながらも、すべての個人の豊かな自己実現と個人/集団間の豊かな共生関係、およびすべての個人/集団の意味ある社会参加を可能にするという意味での「人権文化の構築」をめざす点では共通しており、その意味でいずれも人権教育だと規定できるのである。
 本稿では、多文化教育が発展してきた経緯やその過程で生まれてきた多様性教育という新たなイニシアティブにふれながら、多文化教育が人権教育としてどのような固有性と普遍性を持っているのかについて論じてきたが、読者の皆さんのご参考になれば幸いである。