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国際人権ひろば No.128(2016年07月発行号)

特集 チェルノブイリから30年、福島から5年

チェルノブイリ30年、フクシマ5年 -フクシマを核時代の終わりの始まりに-

振津 かつみ・猪又 雅子(ふりつ かつみ・いのまた まさこ)
「チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西」事務局

 

 市民団体「チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西」事務局(以下、救援関西)の医師の振津かつみさんと看護師の猪又雅子さんにお話を伺いました。救援関西は、チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)から5年目に発足し、以来25年間、事故によって放出された大量の放射線の7割が降り注いだと言われるベラルーシの原発事故被害者への支援と交流を行っています。(お2人のお話を編集部でまとめ、記事を構成しました。)

 

 事故から5年目

 救援関西は1991年11月に発足しました。この年は、2月に福井県にある美浜原発1号炉での蒸気発生器細管破断という深刻な事故が起きています。私たちの活動のキーワードは、発足当初から、広島・長崎の体験と運動の経験を活かし、「核被害者(ヒバクシャ)」と連帯しよう、核の被害を繰り返してはいけないということです。核は、軍事利用であれ、「平和」利用であれ、人々の命と健康と生活を脅かし、さまざまな形で人権を侵害します。多数の原発を抱えた日本では、チェルノブイリは「遠い国で起きたかわいそうな話」ではすみません。自分たち自身の問題でもあるのです。

 救援関西発足のきっかけは、事務局メンバーの振津かつみが1991年にウクライナとベラルーシのチェルノブイリ原発事故の被災地を訪れたことでした。日本から来たということで、現地の人々から「広島や長崎の被ばく者はどうしているか」と何度も聞かれました。広島では、爆心地から3.5kmの場所での外部被ばく線量は約1ミリシーベルトと推定されていると説明したら、ベラルーシの研究者の方から「私たちチェルノブイリ被害者も同じぐらい被ばくしています。私たちもヒバクシャなんですね」と言われました。この言葉を聞いて、チェルノブイリと広島・長崎は被ばくの仕方が違うので、単純に同列には並べられないけど、「人類は、数多くの新たなヒバクシャを生み出すという、とんでもない誤りをまた犯してしまった」と改めて感じました。また、現地の人たちからは、「広島・長崎を経験した日本人は私たちの気持ちをわかってくれるはずです」と言われました。この言葉もとても印象に残っています。

 振津が帰国後、チェルノブイリ被災地で見聞きしたことを関西各地で報告し、子どもを持つ女性たち、教師、医療関係者らと一緒に、ささやかな支援と交流ができないか相談を始めました。そして、つくられたのが救援関西です。「ヒバクシャ」という言葉を団体名に入れることにこだわったのは、広島・長崎のヒバクシャ、そして世界のヒバクシャの運動とのつながりを考えたからです。また、一方通行の支援ではなく、顔の見える関係で現地とつながることを大事にして、ささやかでも現地の人と一緒に悩みながらつながりをつくっていきたいと考えました。

救援関西1.jpg

汚染地の子どもたちは学校のクラスごとに、病院で年2回、甲状腺超音波検査など様々な診療科の健診を受ける。

(クラスノポーリエ、1994年)

 

 ベラルーシのヒバクシャとのつながり

 私たちの支援・交流先の1つに、ベラルーシ共和国モギレフ州にあるクラスノポーリエ地区があります。私たちは1992年春に初めてこの地域を訪れました。この地区は、チェルノブイリ原発から250kmも離れているにもかかわらず、地区の3分の1以上が高汚染のため人々が住めない「居住不能」地区とされ、移住と出生率の低下によって、事故前の人口の2万1千人から半減しました。しかし、チェルノブイリから離れた地域であり、その現状があまり知られておらず、支援もほとんどされていませんでした。支援が足りない地域に支援を届けたいという理由から、私たちはこのクラスノポーリエ地区を支援・交流先に選びました。

 当時、現地では、ソ連崩壊直後の経済的困難から、子どもたちの文具やミルク、医薬品などの物資が不足していました。病院には使い捨ての点滴セットや注射器もない状態で、日常の診療さえも大変でした。そのため、本当に必要なものをできるだけ日本から現地に持って行きました。今では、ほとんどのものを現地で購入して届けています。

 また、1992年11月、発足1周年の集会を開催したのですが、そのときゲストとしてお迎えしたのがクラスノポーリエ地区の小児科医ベーラ・ルソーバさんと、隣接するチェリコフ地区の教師ヴァレンチーナ・モロゾーバさんです。お2人には、小児甲状腺がんの急増などの子どもたちの健康問題、コミュニティのきずなを断ち切った移住や深刻化する医師不足など、事故当時から事故後6年目に至るまでの現地の状況について話していただきました。

 ベラルーシの首都ミンスクのマリノフカ地区の団地には、ベラルーシ各地の高汚染地から1万人あまりが移住して暮らしています。私たちは、この地区で結成された互助グループの「移住者の会」の方たちとも支援・交流を続けています。1993年の現地訪問のときに日本から来た私たちに対して、10家族以上が、「団地の自分たちの自宅にぜひ泊まって」と言って暖かく迎えてくださり、一緒に食事をして歓談するうちに、移住者の様々な苦労や思いを聞き、親しくなりました。

救援関西2.jpg

親のアルコール依存などのため保護が必要な子どもたちが暮らす施設で、日本の紙芝居をロシア語で語り聞かせる救援関西メンバー。

(クラスノポーリエ、2005年)

 

 25年目に起きた福島第一原発事故

 チェルノブイリ原発事故から25年経った年に、東日本大震災に伴い、福島第一原発事故が起きました。チェルノブイリと同じようなことにはならないようにと願い、震災が発生した夜は一睡もできませんでした。次々起こることがチェルノブイリ事故直後のことと重なって見えました。チェルノブイリ原発事故当時、人々は放射能汚染を知らされず、子どもたちは屋外でいつものように遊んでいて被ばくしたのですが、残念ながら福島でも同じようなことが起こりました。

 2011年3月末には、アメリカ軍が上空から放射線を測定したデータをもとに作成した福島原発周辺の汚染地図が新聞報道されました。それを見て私たちは、福島第一原発周辺が、チェルノブイリ原発事故のときと同じように深刻な放射能汚染に見舞われたことを確信しました。

 振津が福島に事故後初めて行ったのは2011年4月の初めです。それから毎月、被ばく防護のための健康相談など、いろいろ試行錯誤しながら支援と交流を続けています。

 

 フクシマを核時代の終わりの始まりに

 みなさんとは家族か親戚のような親しい間柄になりました。きずなが深まるにつれ、みなさんのまだ癒えることない傷跡を身にしみて感じています。チェルノブイリは決して終わってはいません。事故から30年目を迎えても、放射能汚染、健康被害、生活困難、政府による被害者の切り捨て、次世代の健康影響や低線量慢性被ばくの影響など、問題は山積しています。

 一方で、支援・交流先のみなさんから学ぶことはとても多いです。ベラルーシでは自然や自分たちの文化を大事にしながら生活していること、そして暮らしが一変した後にそれをどうやって協力して乗り切ってきたのかなど、現地のみなさんの思いや経験を日本で伝え、取り返しのつかない核の被害を繰り返してはいけないと訴えてきました。

 支援・交流活動の中で、忘れることのできない友人の一人が、「移住者の会」のターニャさんです。彼女はゴメリ州の高汚染地ヴェトカ地区で5年間暮らした後、1991年に首都ミンスクに移住しましたが、2010年に脳腫瘍のため50歳で亡くなりました。チェルノブイリ15周年の2001年に、私たちはターニャさんを日本に招へいし、関西各地と被ばく地広島で交流をしました。また、福井県若狭湾も訪れ、美浜原発、敦賀原発、高速増殖炉「もんじゅ」も見学したのですが、彼女は、たくさんの原発がある日本の現状に心を痛めていました。「地球をおもちゃにしないで」と、日本の人々に伝えたいと言われました。私たちは彼女のメッセージを受け止めていたはずなのに、2011年に福島第一原発事故が起こる前に、日本の原発を止められなかったことが悔しくて悲しくてなりません。また核被害をこれ以上繰り返してはならないと強く思います。

 2016年4月3日には、これまでのチェルノブイリとフクシマへの支援・交流の活動をもとに、また脱原発や原発被害者支援に取り組む多くの市民の方々と協力して、国際シンポジウム「チェルノブイリ30年・フクシマ5年」を開催し、「チェルノブイリ・フクシマを繰り返させない」「原発事故被害者の補償と人権の確立を」「フクシマを核時代の終わりの始まりに」の思いを共有しました。みなさんとともに、引き続き活動を進めていきたいと思います。


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