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国際人権ひろば No.127(2016年05月発行号)

特集 なぜスカーフ論争なのか

映画「スカーフ論争」が問いかけること

中村 一成(なかむら いるそん)
ジャーナリスト

 フランスに暮らすアラブ系ムスリムの少女たちが公立学校でスカーフを纏うことの賛否を巡る「スカーフ論争」。十代の女性たちの「表現の自由」を踏み躙ろうとしたのは、ルペン―彼が憧憬した外国人管理政策が日本の外国人登録法であった「恥」を私たちは今一度、心に刻むべきだ―のような極右たちだけではない。左派、リベラルを代表する知識人たちもが「男尊女卑の象徴」「政教分離(ライシテ)の理念に反する」「着用禁止は彼女たちを家父長制から解放する」などとしてスカーフの着用禁止を主張した。

 「『北朝鮮』報道」が過熱すると、朝鮮学校生らへの官民挙げた「攻撃」が繰り返されるこの日本のように、フランスのスカーフ論争は、『悪魔の詩』問題(同書の記述をイスラームに対する侮辱とするホメイニが、著者サルマン・ラシュディや刊行者らへの「死刑」を宣告した)がメディアで喧伝された1989年に始まる。その後も「ムスリム報道」と呼応するように幾度も高揚したこの論争は、2004年、実質的にヒジャーブを狙い撃ちした「宗教的シンボル禁止法」の制定に到り、今も続いている。

 映画『スカーフ論争』は、学ぶ権利を奪われるムスリム女性たちや、彼女たちへの攻撃を「レイシズム」と批判する者たちの言葉を軸にしたドキュメンタリーである。2016年のいま、この映画を取り上げた理由は幾つもあるが、ここでは二つ挙げておきたい。

 

 レイシズムと植民地主義

 

 一つは欧州で吹き荒れるイスラモフォビア(イスラム嫌悪、憎悪)をレイシズムの結果として捉え直したかった。反ムスリム感情の高揚は、まるで「9・11」や2015年の「シャルリ・エブド事件」、さらには中東からの夥しい難民の流入への即時的反応のように報道されているが、その根底には、レイシズムを基礎になされ、今も総括されていない「植民地主義」の歴史が存在する。2日目のトークゲスト、鵜飼哲さんが指摘するように、「植民地主義と奴隷制への謝罪と補償」「シオニズムを人種主義として非難すること」などを旧植民地のアフリカや中東諸国が要求した2001年のダーバン会議(反人種主義世界会議)が、旧宗主国や米国、イスラエルの猛反発で「失敗」したその3日後、「9・11」が起きたのは象徴的である。

 そもそもフランスにマグレブ※ルーツのアラブ系ムスリムが一定程度暮らしているのは、戦後の労働力不足を補うため、フランスが植民地だったマグレブ諸国から「労働力」を輸入したことが原因である。安価な使い捨て労働力として炭鉱や自動車産業などの基幹産業を担い、高度経済成長が終われば幾ばくかの「金」と引き換えに帰国を促すなど、人間をロボットか何かと勘違いしたような行為が公によってなされたのである。この経緯は、本作の「前段」といえるヤミナ・ベンギギの労作『移民の記憶』(1997年、フランス)に詳しい。ぜひ観て欲しい。

 ちなみに、強者のこの「ご都合主義」は、バブル期の人手不足に伴う財界からの要請で、日本が導入した「日系人」労働者輸入政策が、世界的不況で行き詰った際に実施された「手切れ金制度」(一定程度の「帰国支援金」と引き換えに、同じ在留資格での入国を認めない制度。実際に利用した者は少なかった)の参考にされたと言われている。

 フランス「国民」と交わり、権利意識を持たないように、郊外に住まわせられ、常に潜在的犯罪者のごとく扱われ、世代を重ねてもフランス社会に溶け込もうとしない「異質な者たち」と見なされた彼・彼女らは、「フランス社会に害をなす厄介者」として、官憲の監視、管理の対象とされる(マチュー・カソビッツ監督の映画『憎しみ』(1995年、フランス)は、警察から日常的な嫌がらせや暴力を受ける郊外の若者たちの怒りと倦怠を映し込んだ力作である)。

 

 『スカーフ論争』を掘り下げれば、見えてくるのは、人間を使役し、搾取し、自分たちとは対等の成員とは扱ってこなかった「人権の祖国」の恥部である。本作が完成した翌2005年には、事件捜査中の警察官に追われた北アフリカルーツの若者2人が感電死した事案を契機に「郊外叛乱」が発生した。被抑圧者の怒りを「暴動」と呼び、若者たちを「クズ」と罵倒し、イスラム嫌悪を煽り立てたのはサルコジである。公人が、社会に溜め込まれた差別意識に出口を与えたのである。郊外を巡る問題は、「フランス社会」とは無関係な「彼・彼女らの問題」に歪曲され、「我儘で野卑」なムスリム像が増幅していった。

 ムスリムへの憎悪や恐怖が浸透し、二世、三世の少女たちがスカーフをまとうことすらも否定され、同化か排除を迫られる。一方で、彼・彼女らムスリムの拠り所である「宗教」を罵倒し、貶め、差別を煽動する「風刺画」は、フランスの価値観「表現の自由」で擁護される。「シャルリ・エブド事件」は「多数者の《権利》」が少数者を抑圧してきた一つの帰結であり、それはレイシズムがいかに社会を破壊していくかを示す。殺人はいかなる理由でも正当化されるものではないが、「テロ」と名付けて思考停止することは、問題を根本から解決するために必要な、原因究明への道を閉ざしてしまう(だからこそ為政者や、怠惰なメディアは「テロ」を乱発するのだ)。フランス社会に一貫して存在するレイシズムの問題について、映画上映とトークを通して考える。これが第一の目的だった。

 それは、同じく植民地主義の歴史を持ち、その犯罪の歴史をいささかも省みようとしないこの日本社会の病理とも共通する。それだけではない。共和主義と皇民化の違いこそあれ、他者が他者であることを認めないフランスと日本のレイシズムには共通点が多い。フランスの問題から日本の現状を照射し、日本社会に蔓延するレイシズムと対峙する言葉と実践を紡ぎ出す。二つ目の理由はこれだった。

中村さん写真.jpg

映画「スカーフ論争」より

 日本にも通じる「同化の強制」

 

 この数年、日本でも「レイシズム」という言葉を頻繁に見聞きするようになった。それは、「在日特権を許さない市民の会」など「レイシスト」グループに抗うカウンターや国会議員が現れ、ヘイト・スピーチが社会問題化したことによる。だがそれに飛びついたメディア(≒多数派の常識)が「ヘイト・スピーチ」を報じるとき、それは単に、下品、下劣で大音量の罵詈雑言に切り縮められ、その本質であるレイシズムそれ自体が問われることはまずない。確かに代表的形態の一つである「排外主義」は分かり易いが、それだけではない。「スカーフ論争」を通じて考えたかったのは、レイシズムのもう一つの代表的形態であり、排外主義に反対する者たちも得てして取り込まれてしまう「同化の強制」だった。

 

 この社会で同化主義を「差別」と捉える認識は低い。たとえばヘイト・スピーチ問題の原点「京都朝鮮学校襲撃事件」である。ヘイト・スピーチの社会問題化に伴い、メディアが事件を報じる機会は飛躍的に増えたが、注目は、レイシストらの排外的言動に集まり、なぜ学校が襲われたか、なにを守ろうとしたのかに言及する記事はほとんどなかった。朝鮮学校は、植民地支配で奪われた自らの言葉や文化を取り戻すために朝鮮人自身が開設した学校を起源とする。朝鮮学校とは、同化主義への「否」から生まれ、それゆえに襲われたのだ。その学校(異化の権利)を守ることが闘いの眼目だったが、メディアの感度は鈍かった。それは、裁判と同時進行だった高校無償化からの排除や、自治体の補助金廃止への関心の低さに直結していた。それは差別が官と民を循環、増幅していく構造への認識の弱さでもあった。

 

 レイシズムは一様ではない。本作で哲学者、ピエール・デヴァニアンがいみじくも言う。「スカーフを受け入れるべきかという問いの裏にはアラブ人を受け入れるべきかという問いがある。こう問いを言い換えることで、本音がいえるようになる」。人を差別し、排除したいという欲望は、その時々に適応してスタイルを代え、時に「多数派の常識」に寄り添いながら噴出孔を見つけだす。だからこそ我々は常にレイシズムとは何かを考え、感度を研ぎ澄ませる必要がある。本企画は期せずして、人種差別に対応する法制定を巡る与野党の攻防が大詰めを迎える時期に重なったが、如何なる法整備がなされても、レイシズムとの闘いは続く。「差別」を見抜き、対峙する思考の営為に終わりはない。

 

 

「エンド・レイシズム!映画を観て人権を考える」

3月17日(金) 映画上映とトークショー

        菊池恵介さん(同志社大学准教授)

        藤永壮さん(大阪産業大学教授)

3月18日(土) 映画上映と講演

        鵜飼哲さん(一橋大学教授)

        両日ともナビゲーター 中村一成さん


マグレブ:リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコなどの北西アフリカ諸国の総称。


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