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国際人権ひろば No.108(2013年03月発行号)

人権さまざま

体罰

白石 理(しらいし おさむ)
ヒューライツ大阪 所長

 

世界人権宣言
第3条
すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。

児童の権利に関する条約
第19条
1  締約国は、児童が父母、法定保護者又は児童を監護する他の者による監護を受けている間において、あらゆる形態の身体的若しくは精神的な暴力、傷害若しくは虐待、放置若しくは怠慢な取扱い、不当な取扱い又は搾取(性的虐待を含む。)からその児童を保護するためすべての適当な立法上、行政上、社会上及び教育上の措置をとる。

 このところ体罰といじめのニュースが日本社会を駆け巡っている。あちらでもこちらでも、次々と新たな暴露が続く。そのたびに、学校責任者、行政の首長、教育委員会などのお詫びがあり、適切な対処と今後の再発防止が約束される。不祥事が公になったときに日本社会で繰り返される儀式である。
 
 2013年はじめに、女子柔道日本代表監督の暴力行為が15人の選手から日本オリンピック委員会(JOC)に訴えられ、体罰問題はもはや国際社会の目から逃れることはできなくなった。東京のオリンピック大会誘致にも懸念の声があがった。スポーツで体罰を容認する野蛮な伝統を持つ日本という「誤解」を解く必要があるとも言われる。JOCのアンケートに回答した各スポーツ連盟は体罰の実態はなかったとしたという。体罰があったのは女子柔道だけということなのか。まさか。
 
 かつてのスポーツ選手が明かしたところでは、指導者と選手の関係でも、先輩と後輩の関係でも、殴るということは日常的にあったという。日本のスポーツの世界では、このようなことが容認されてきた。「厳しく指導する」、「根性を鍛える」、「しごく」、「活を入れる」、「愛のむち」と言い方はいろいろ。けれども実態は、絶対的に優位に立つ者が、弱い立場に置かれた(あるいは置かれていると見られる)者にふるう暴力である。これを避けたり、逆らったりすることは許されない。絶対服従を強いる。「一人ひとりを、人として大切にする」という人権の原則の全面的な否定である。
 
 日本社会には、スポーツの世界ばかりではなく、広く「体罰」容認の風土がある。「体罰」が問題となった後で取られたアンケートの結果でも、半分は「体罰」容認と出たという。かつて文部科学大臣であったときに「人権は大切だが、尊重しすぎたら、日本社会は人権メタボリック症候群になる」との発言を報道された今の衆議院議長は、スポーツ指導や教育現場での体罰に関して、「体罰を全く否定して教育なんかはできない。...何のために体罰を加えるのかという原点がしっかりしていない。立派な人になってほしいという愛情をもって体罰を加えているのか、判然としない人が多い」と言ったという。「体罰」容認の例である。
 
 学校教育法第11条が、「校長及び教員は、...児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」と定めるにもかかわらず、教育の現場でも「体罰」はある。私が通った男子中、高等学校では、叱責との組み合わせで、教室から締め出す、長時間立たせる、廊下に座らせる、出席簿で頭を強く叩くなどは当たり前のようにあった。私には、体罰を「愛情をもって」加えてもらったという思い出がない。
 
 「体罰」の極端な例がよく知られている。拷問ともいえる「体罰」が組織的に行われたのは軍隊である。日本の軍隊ばかりではなかった。無意味に、残酷に、部下を殴る、蹴ることで、力を持つ者に対する怖れと絶対服従を強いた。強制収容所でも同じことが行われた。人権とは別世界の時代であった。
 
 「体罰」というのは、悪いことをした者を身体に激しい痛みを加えることによって罰するということ。ここでいう「悪いこと」とは、指導者や先輩が指示したことをしなかったとか、できなかった、要求した結果が出なかったということか。理不尽である。規律やルールを守らず、危険に身をさらすことになる、だらけるというような場合にも、身体を護るための制止はあっても「体罰」が当たり前とはならないはず。「体罰」という暴力は、身体に苦痛を引き起こすばかりではなく、受ける者に心理的衝撃と屈辱感を与える。人格に対する攻撃である。
 
 身体に軽い痛みを与えることで、良い効果をもたらすものがある。坐禅行のときに姿勢の崩れた者の肩を警策で打ち警告を与える場合である。打たれる者は、意味を理解し、打つものに全幅の信頼を置いている。打つものと打たれるものが、互いを尊び向かい合う。打つという行為は、定められた作法に則り制御されている。身体を傷つけるものではない。自尊心を傷つけたり、屈辱感を与えたりはしない。これは「体罰」とは言わない。
 
 家庭での「しつけ」も同様である。しつけに欠かせないもの、それは、親が子どもを人として尊ぶこと。そして子どもの親に対する信頼である。親に対する信頼が揺らぐ思春期には、しつけは大変難しい。しつけはほとんどの場合言葉で事足りる。ごく稀に、子どもを落ち着かせ、話ができる状態に戻すために、制御された力の行使が必要な場合があるという。そうかもしれない。けれども、私には苦い経験がある。子どもを叩いて、大変悔やんだことがあった。後で子どもに謝ると、かえって子どもに慰められた。「叩かれてもしょうがないことをしたんだから」と。それでも、後悔の気持ちは消えなかった。