MENU

ヒューライツ大阪は
国際人権情報の
交流ハブをめざします

  1. TOP
  2. 資料館
  3. 国際人権ひろば
  4. 国際人権ひろば No.102(2012年03月発行号)
  5. 「民意」と人権

国際人権ひろば サイト内検索

 

Powered by Google


国際人権ひろば Archives


国際人権ひろば No.102(2012年03月発行号)

人権さまざま

「民意」と人権

白石 理(しらいし おさむ)
ヒューライツ大阪 所長

 

世界人権宣言
第28条
 すべて人は、この宣言に掲げる権利及び自由が完全に実現される社会的及び国際的秩序に対する権利を有する。
第30条
 この宣言のいかなる規定も、いずれかの国、集団又は個人に対して、この宣言に掲げる権利及び自由の破壊を目的とする活動に従事し、又はそのような目的を有する行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない。

ISO26000
 多様な道徳的、法的及び知的規範は、人権が法又は文化的伝統を超越するという前提に基づいている。
(6.3.1.1)

ビジネスと人権に関する指導原則
 人権を尊重する責任は、事業を行う地域にかかわらず、すべての企業に期待されるグローバル行動基準である。 ……さらに、その責任は、人権を保護する国内法及び規則の遵守を越えるもので、それらの上位にある。
(国連事務総長特別代表ジョンラギー報告書付録
「ビジネスと人権に関する指導原則」11の解説)

 最近、大阪府の知事と大阪市の市長を同時に選ぶ選挙があった。結果は、圧倒的多数で新知事と新市長が選ばれた。その時言われた「民意を問う」。新しい市長は大多数の支持を得たことで、公約の実行を推し進めるという。新市長は「民意」の体現者として、自分の主張を実行する基盤を固めたとされる。「民意」による政治が民主主義の基本であるという。確かに、民主主義のルールは多数決による決定である。このこと自体に異議を唱える余地はない。
 
 それでは、民主主義では多数決がすべてかというと、そうではない。多数決で決められないことがある、多数決で押し切ってはならないことがあるというのも民主主義である。
 
 この「人権さまざま」欄でこれまで二度、民主主義と人権について触れた。一つは2008年3月発行78号の「人権と民主主義」、そして2010年11月発行94号の「人権は法律を超える」である。そこでは、民主主義と人権が切っても切れない関係にあること、民主主義では、多数決でも人権を制限したり、内容を変えたり、葬り去ることは許されないこと、人権が保障されない環境では本来の民主主義が育たないことなどを述べた。
 
 今回は、特に少数者の人権が民主主義体制ではどのようにまもられるのかについて見てみよう。
 
 「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と世界人権宣言は定める。しかし現実には多くの場合、社会的弱者、少数者、社会から疎外された人々の人権が脅かされていることは否めない。
 
 2010年11月に発行された「社会的責任の手引き」と題されるISO26000の中の「人権に関する課題」では、差別を受ける人びとと社会的弱者に特別の配慮が必要であるとしている。また2011年6月に国連人権理事会が全面的に支持した「ビジネスと人権に関する指導原則」は、国家も企業も人権を護り、尊重するに際しては、特に、社会的に弱い立場に置かれ、排除されるリスクが高い集団や民族に属する個人の権利とニーズ、その人たちが直面する課題に特に注意を払うべきであるとしている。これら二つの文書は国際的に広く受け入れられた基準として知られるようになった。そこにあるのは現実を見据えた人権の視点である。
 
 「民意」は、民の意、すなわち一般市民の意見の集合であろう。本来ならば「民意」は 、社会が直面する問題や課題を十分に理解したうえで、投票による意思表示をするということで明らかになる。多数の民意もあれば、少数の民意もある。しかし今のような情報化社会では、「民意」がマスメディアを通した世論への影響によって左右されることが一般的である。「劇場型政治」などと言われるものが、視聴者の注意を引く発言で彩られたのは記憶に新しい。政治は舞台でのパフォーマンスにたとえられるようになった。「自民党をぶっ潰す」と言って自民党の総裁に選ばれ、総理大臣になった人がいたが、今ではそんなことでびっくりはしない。これまでの政治に失望した市民が変化を求めるのに呼応して、市民の気を常に引き続けることによって「民意」を作り出すという側面を見逃してはならない。マスメディアの力をうまく使うことが出来る候補者が有利とされる理由でもある。アメリカの選挙運動では、候補者は多額の資金を使ってテレビの放送時間を買い、新聞の紙面を買って、自分を売り込む。アメリカ民主主義の選挙では、このように資金力がものをいうとされる。こうなると「民意」の根拠は、言われるほど確かなものではなくなると感じるのは私だけだろうか。
 
 選挙で選ばれた人は、社会全体の公益のために働くという重い責務を引き受けることになる。「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」(日本国憲法第15条2)。少数の「民意」を大切にし、配慮してほしい。多数を頼んで人権を無視する法律を作れば、そのつけは必ず市民全体に戻ってくる。人権は法律を超えるという大前提を崩せば、公正も公平も社会に期待できない層が増え、社会から疎外される人が増える。いずれそのような社会は人が安心して住める、安全なものではなくなる。世界にそのような例が多くあることはよく知られているではないか。