MENU

ヒューライツ大阪は
国際人権情報の
交流ハブをめざします

  1. TOP
  2. 資料館
  3. 国際人権ひろば
  4. 国際人権ひろば No.93(2010年09月発行号)
  5. あれから65年

国際人権ひろば サイト内検索

 

Powered by Google


国際人権ひろば Archives


国際人権ひろば No.93(2010年09月発行号)

人権さまざま

あれから65年

白石  理(しらいし おさむ)
ヒューライツ大阪 所 長

国際人権規約(A 規約、B 規約の共通条項)
第一条
1 すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する。


 毎年8月、原爆記念日(8月6、9日)が来て、終戦記念日(8月15日)が来る。そして、私の誕生日。戸籍によると、昭和20(1945)年8月25日、「朝鮮平壌府幸町」で生まれ、昭和21年9月19日、母によって届け出がなされたとある。私の出生にまつわる事情がここに記されている。

 私の父は、当時の満州、今の中国東北部にあった「大日本帝国陸軍(関東軍)」の主計将校として、家族を伴って「満州国」の首都、新京(現在の長春)にいた。父の留守中の1945年8月9日、奇襲攻撃によってソ連軍が満州侵攻を開始した。直ちに疎開するようにとせきたてられて、母は、身重の体で父の安否を気遣いながら、2歳半になる私の兄を連れて、列車に乗り込んだという。紆余曲折があり、やっと平壌に着いたときには日本の敗戦。街は「マンセイ、マンセイ(万歳)」と叫び、喜びあう人びとで溢れていたという。ソ連軍が入ってきて間もなく私が生まれた。苦労と不安の1年。日本人はどこでも身を潜めるように生きていたという。1年後、栄養失調の幼子を二人抱えて、日本へと帰国する人たちに加わり歩き始める。難渋の末やっと38度線を越え、引揚げ船で帰国したのが1946(昭和21)年9月。父のシベリア抑留は後になって知ったという。母が私の出生を役所に届け出た。父がソ連邦から帰還したのは1948年であった。

 「満州国」は、独立国の体裁を保ってはいても、その実体は日本の植民地であった。関東軍は日本の植民地支配を固めるためにいたのである。私の出生の背景である。

 長い時がたって、2010年8月10日、日本国首相が、韓国に対して、「過去の植民地支配に対する反省とおわび」を表明した。日韓併合100年にあたる2010年という節目の談話発表である。植民地支配下で苦しんだ人びとに対する責任を真摯に認め、加害者自身の変革を約束し、前と同じ行動を繰り返さないという決意と行動が伴えば「おわび」は本物である。「未来志向の日韓関係」は、過去の直視、歴史の事実認識の上にこそ築くことができる。
 

 毎年、広島で、そして長崎で、「原爆の日」の平和記念式典が持たれる。65回目の今年は、はじめて、原爆を投下したアメリカ合衆国の駐日大使が広島の式典に参列した。早く戦争を終わらせるため、多くの無駄な死を避けるため、日本軍の戦争犯罪を罰するために落としたとされる原爆は、20万人以上の命を奪い、以来今まで被爆者に苦しみをもたらし続けている。犠牲者の大多数は、女性と子どもを含む民間人であった。無差別破壊の威力を持った原子爆弾。どのような言い訳をしようとこれは明らかに国際法違反である。しかし、原爆を落とした国からはいまだに「反省」も「おわび」もない。

 核兵器を拡散させないために核拡散防止条約というものがある。これ以上核兵器を持つ国を増やさないために、核兵器を保有しようとする国に国際的圧力をかけ思いとどまらせるのに役立っているという。しかし、核兵器を持つ国の核廃絶を促す仕組みはない。核保有国に核兵器を持つ「既得権」はないはず。かれらの核拡散防止、核兵器開発禁止の声に説得力はない。

 沖縄も戦後65年を迎えた。しかし、普天間のアメリカ軍基地移転問題に象徴されているように、本当の「戦後」は未だ来ていない。明治初期の琉球軍事併合以来、沖縄は日本の一部とされながら、「本土」と同じ扱いはされてこなかった。沖縄に対する構造的差別は今も続いている。

 そのような現実に向き合おうとせず、また、めまぐるしく変わりゆく国際社会を見ないで内向きの視座をとる人たちがいる。日本社会の今の問題の原因を、外国籍の人たちと外からの理不尽な圧力に求めるような主張が躊躇なく表明される。「若者が誇りに思える日本」を教えるために「自虐史観」を排除した「新しい歴史教科書」が作られたりした。日本を美化しようとする動きである。歴史的事実を「虚偽」、「歪曲」であると主張することで、「ばかにされない日本」を若者に教えるという。また、「わざわざ昔のことを持ち出さなくても」という意見もある。当時の日本の官憲、軍隊によってひどいことが行われたとしても、その当時のことを今の尺度で測るのは間違っているとも聞く。知っていながら頬かむりをする。これが今の日本のもうひとつの姿である。

 国連憲章前文がいう「言語に絶する悲哀を人類に与えた」戦争が終わって65年。今、「戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認」したい。