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国際人権ひろば No.88(2009年11月発行号)

特集:「移住」の視点からみる韓国・済州島スタディツアー Part1

生計を担う女の移住労働―済州海女博物館を見学して

伊田 久美子 (いだ くみこ)
大阪府立大学女性学研究センター

旅の始まりにふれた海女の生活史


 スタディツアーの初日に済州海女博物館を見学した。空港からバスで1時間ほどの美しい海辺に、済州海女抗日記念公園がある。 1932年にこの地で起こった海女たちによる抗日運動の記念塔のあるこの広大な公園の一角に、済州海女博物館がある。 2003年に着工され2006年 6月から開館したこの博物館では、海女の歴史や、生活や技術の伝統、抗日運動や島の教育などへの海女の社会的貢献を伝える貴重な展示が展開している。 近代社会において不可視化され易い女の労働が、済州島では博物館やモニュメント、そして世界遺産への登録運動などに見られるように、公的認知と評価を受けていることは、 それ自体が済州島の歴史における海女の存在の重要性を物語っている。海女は済州の伝統社会のシンボルであり、今日貴重な観光資源としても位置づけられている。 一般的に儒教的家父長制規範の根強い韓国にあって、済州島の海女の仕事や生活の歴史は、女の生活や仕事のありかたについての一般的な観念を大きくゆさぶるインパクトを持っている。 済州の海女たちは経済的に独立し、単身あるいは子連れで出稼ぎに出て家族および島の生計を支える移住労働者であった。日本、とりわけ大阪との関係は深く、記憶を新たにすべき歴史を思わずにはいられない。
 広々とした近代的な館内は三つの展示室で構成されている。第 1 展示室では海女の伝統的な生活の様子が、漁村、海女の家、生活道具、海女服などの模型によって展示されている。母の実家がある佐渡に親しんできた私には、様々な違いはあるが日本の漁村の風景を想起させるところも多い、「懐かしい」光景である。第 2 展示室は海女の仕事が紹介されている。潜水の合間に火を囲んで休憩する海女たちの姿が模型によって再現されている。赤ん坊に授乳する海女もいる。海女たちが自分で制作する精巧な採集用の作業道具が興味深い。潜水の技術だけでなく道具作りもまた、女から女たちへと受け継がれてきた専門的技術だ。ここにはまた、海女の歴史資料や協同組合の活動、抗日運動の記録、島の教育設備等への海女たちの貢献を示す資料とともに、海女たちの出稼ぎ労働も紹介されている。第 3 展示室は済州島の漁師の生活が展示されている。伝統船「テウ」を用いた漁業の様子、海女や漁師の唄も聞くことができる。海女文化の世界遺産登録をめざして日本の海女との交流もすすめられており、ここには伊勢志摩の海女たちが寄贈した日本の海女の道具や伝統的潜水着も展示されている。
 3階の美しい海の見える展望室で、博物館研究員のチャ・ヘギョン(左恵景)さんの解説を聞いた。チャさんのお話と資料、および帰国後に読んだ済州の海女研究者である伊地知紀子さんの 論文等(注) を参照しながら、済州海女の歴史を紹介したい。

海女博物館の研究員のチャ・ヘギョンさん
海女博物館の研究員のチャ・ヘギョンさん

日本と密接な関係にある済州の海女たち


 済州島の海女の歴史は非常に古く、すでに6世紀の初めの記録に済州の魚介類が登場し、10世紀の記録では日本との魚介類の交易を示す記述もある。昔は男も潜っていたが、 女の方が適性があると考えられ次第に女の職業となったという。済州の経済は海女が支えてきたといっても過言ではない。近代化が進行し市場経済が拡大するにつれて、 海女の採集する魚介類の換金商品としての価値が高まり、海女の稼ぎは島にとっていっそう重要なものとなった。1876年の不平等条約(江華島条約)により、日本の漁民たちが朝鮮半島に出漁し始め、 潜水器による乱獲は済州の海を荒らした。済州の海女たちは新しい作業場を探して出稼ぎ海女漁を盛んに行うようになっていった。出稼ぎ先は朝鮮半島本土、対馬、大阪から日本各地へ、 中国の青島、大連、さらにはロシアのウラジオストックにまで及んだが、植民地化以降は日本に集中していった。はじめは日本の海女が出稼ぎに来ていたが、 1903年の済州の海女の三宅島への出稼ぎを皮切りに多くの海女が三重県などに渡った。二人一組で作業する日本の海女に対して、済州の海女は日本の海女に比べて賃金は安く (日本の海女の三分の一であったという)、しかも一人で作業するためその能力と技術を高く評価された。日本への出稼ぎは年々増加し、1932年には1,600名、1930年には5,000名にも及んだ。 1922年からは済州島と大阪の間には「君が代丸」という名前の定期船が往来し、多くの出稼ぎ労働者を運んだ。
 済州の海女たちの賃金は低く悪条件であったため、1920年に「済州島海女漁業組合」が結成されたが、海女の労働条件はなかなか改善されなかった。 それに対して1930年から海女のストライキ闘争が始まり、1932年「済州島海女抗日闘争」が起こった。12,000人もの海女たちの200回ものデモは、この海女博物館のある下道里から始まったのであった。
 移住は1945年までは自由であった。植民地時代には国境はなかったからである。しかし解放後は国境によって移住に制限がかかるようになり、むしろ密航が増加した。 1989年の海外自由渡航化までは、海女の合法的出稼ぎ先は韓国国内に限られていたのである。
 海女たちの出稼ぎ労働は家族の生計と済州島の経済を支えてきたと言っても言い過ぎではない。解放後の済州島を襲った朝鮮戦争と四・三事件の過酷な情勢の中、 済州の生活は1960年には二万人にまで達したという海女の収益によって支えられた。海女の出稼ぎによる収益は島内での収益の2倍に及んだという。

時代を超えて越境する女性たち


 今日済州島では海女の高齢化と継承者不足が進んでいる。チャ・ヘギョンさんの資料によると、現在の現職海女は済州島全体で5,244人で、引退した海女が5,414人であるという。 現職海女の35.4%が70歳を超えており、37.2%が60代である。若手は30代に10人いるだけで、30歳未満はゼロである。女性の高学歴化によって仕事の機会が拡大し、 過酷な海女の労働を選ぶ女性は減るばかりだ。東・東南アジア諸国から韓国への移住者が増大している今日、海女が移住外国人労働力によって継承される可能性もこれからは現実味を帯びてくるのかもしれない。
 近年済州島と日本の海女の交流が盛んになっている。2007年に済州島で「海女博物館日韓国際学術会議」が開催され、参加した鳥羽市浦村町の「海の博物館」との世界遺産無形文化財登録を日韓共同でめざす提案を受けたという。鳥羽市と済州島の交流にとどまらず、2008年には岩手から熊本まで日本国内10カ所の海女と済州島の海女が集う「海女フォーラム・第1回鳥羽大会」が開催され、海女文化の継承をともに目指している。済州海女博物館にも志摩半島の海女の写真や衣装、道具を紹介する展示コーナーが設けられ、共通の文化をアピールしている。
 海女は日本人にとっても身近な生活文化である。有名な志摩半島だけでなく、日本各地に海女の伝統は今も残っている。女の稼ぎが男を上回り女が生計を支えるという生活は日本の漁村においても共通である。日本の海女研究の先駆者である民俗学者の瀬川清子さんの著作を読むと、済州島と日本の海を通じての連続性を考えさせられる。海女は経済を支える重要な産業であり、専門職としてのこの仕事は稼ぎ手としてだけでなく、女から女たちへと伝承され洗練されてきた技術の担い手としての地位と誇りの源泉である。済州は女性の強い社会であるという話をツアーの間にしばしば耳にしたが、それはやはり稼ぐことのできる力によるところが大きいのではないだろうか。「男は仕事、女は家庭」という西欧近代のジェンダー規範とは相当に異なり、ここでは女が仕事も家事育児も担っている。女たちは単独で、あるいは乳飲み子を抱えて海女の仕事をし、移住労働に出ていった。今日グローバル化の中で増加している女性の単独移住は、東アジアにおいては伝統的な形態であったことがわかる。
 済州島の海女たちは、日本による植民地化と近代化、市場経済化の波が押し寄せる20世紀前半に、大挙して日本に出稼ぎに来て、現在もそれは続いている。大阪生野区コリアンタウンで商売をしている在日済州島出身女性の八割くらいは海女をして子どもを育てた、という証言もある(伊地知2008)。
 かつても今も国境や差別などの人為的境界が越境者の労働を過酷な搾取に晒している。一見ボーダーレスなグローバル経済にとって、この境界は必要かつ有用である。 済州海女博物館で得た知見は境界を越える交流と連帯の重要性への思いを新たにする機会となった。

(注)主要参考文献
  • 伊地知紀子「韓国・済州島チャムスの移動と生活文化-生活実践のダイナミズム」中村則広・栗田英幸編『等身大のグローバリゼーション:オルタナティブを求めて』明石書店、2008
  • 瀬川清子『海女』未来社、1970