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国際人権ひろば No.86(2009年07月発行号)

特集:紛争地の現場から日本社会に問う Part1

近くて遠い紛争―フィリピン南部の紛争と日本

石井 正子 (いしい まさこ)
大阪大学グローバルコラボレーションセンター(GLOCOL)特任准教授

市民団体の食糧配給をまつ子どもたち(2009年2月27日、ダトゥ・ピアン町)
市民団体の食糧配給をまつ子どもたち
(2009年2月27日、ダトゥ・ピアン町)

「避難民30万人『帰れない』」


 2009年2月23日、朝日新聞にこのような見出しの新聞記事が載った。前年8月にフィリピン国軍とモロ・イスラム解放戦線(MILF)とのあいだで大規模な武力衝突がおこり50万人もの人びとが避難を余儀なくされた1。それから半年後、30万人がいまだに帰還できない状況を伝えた記事だった。
 新聞記事が掲載されてから4日後の2月27日、筆者は報道されたのと同じミンダナオ島北西部の町に避難民キャンプと化した小学校を訪れた。小学校の敷地内に窮屈そうに設置されたシェルターは足りていなかった。シェルターに入りきらない住民たちは、一日中陽が差さない体育館や校舎の高床の下に間仕切りを作って生活していた。その暗い床下に、歩くのもやっとの老婦人が横たわる。避難民キャンプでは、衛生状態が悪いため、子どもが下痢などで簡単に命を落とすという。この避難民キャンプでも、半年のあいだに幼い子どもが1人亡くなっていた。食料、生活物資などの支援も足りていない様子であった。
 小学校の向かいのスペースには、避難民が焼け焦げたトタン板を組みたてて、簡易な住居を作って暮らしていた。彼らの家は、国軍によって焼き払われたという。以来、彼らの出身集落は国軍の駐屯地となっている。この半年間、機会をうかがいながら集落にもどり、焼け残った家財道具やトタン板をコツコツと集めてきた。ある男性は、紛争に巻き込まれ、過去に5回も避難を余儀なくされた、と淡々と語った。カタールで家事労働者として働いていた女性は、出稼ぎで貯めた資金で建てた家が壊されるのはこれで2回目だ、と目を伏せて笑った。
 

高床の体育館の下に間仕切りを作って生活する避難民 (2009年2月27日、ダトゥ・ピアン町)
高床の体育館の下に間仕切りを作って生活する避難民
(2009年2月27日、ダトゥ・ピアン町)

日本政府が力を注ぐ平和構築支援


 フィリピン南部の紛争の歴史は長い。過去40年にわたって武力衝突が繰り広げられている。1970年代前後から1996年の和平合意までは比政府とモロ民族解放戦線(MNLF)、1996年から現在までは比政府とMILFが主な紛争当事者である。MNLFとMILFに共通している点は、それぞれがフィリピン南部におけるムスリムを中心とした先住民の土地の権利回復を目ざして闘争を展開していることである。それ以外にもアブサヤフなどの小武装集団が存在し、紛争の引き金要因は多元化している。
 この紛争状況に対し、日本政府は他の紛争地域と比べて一歩踏み込んだ平和構築支援を実施している。日本政府は2002年ごろからフィリピン南部に対する平和構築支援を本格化した。2006年からは、直接和平に関わる支援を実施している。通常、日本政府は紛争当事者のあいだで最終和平合意が形成されてから支援を実施する。これに対し、フィリピン南部では、最終和平合意前に反政府勢力と連携しながら平和構築支援を行うことに踏み切った。具体的には、MILFの開発部門でバンサモロ開発庁(BDA)を支援の受け皿として、地域開発プロジェクトを開始したのである。その目的は、最終和平合意前に住民に「平和の配当」を実感してもらい、貧困などに起因する住民の不満を緩和し、紛争を予防する、というものだ。最終的に比政府とMILFとのあいだで和平合意が達成されることが前提とされていた。
 しかし、2008年8月、比政府とMILFとの最終和平合意にむけて欠かすことができない「先祖伝来の土地に関する覚書(MOA-AD)」に署名がされなかったことから紛争が拡大し、和平交渉は暗礁に乗り上げた。南部のキリスト教徒の右派政治家などが署名反対を表明し、署名予定日の8月5日の前日に最高裁判所が一時差し止め命令を出したためだ2。以来、両者が和平交渉のテーブルにもどる見通しは立っていない。
 このように日本政府が大きく関与していた和平交渉が破たんしたにもかかわらず、武力衝突がおこった2008年8月にこの紛争を大きく取りあげたメディアは少なかった。ましてや、日本の平和構築支援とからめて紛争を報じたものはなかった。
 

バナナダイエットの向こうにあるもの


 どこか対岸の火事のように思われるフィリピン南部の紛争。しかし、隣国フィリピン南部と日本は歴史的にも経済的にもつながりが深い。この紛争は日本と切り離された問題ではない。私たちの生活の関係性のなかにある紛争なのである。
 2008年秋、ミンダナオ島ではまだ避難民の数が減らないなか、日本ではバナナダイエットが大流行した。日本はそのバナナの8~9割をミンダナオ島から輸入している。バナナだけではなく、ミンダナオ産のマグロ、パイナップル、アスパラガスなども日本市場で消費されている。これら輸出指向型のアグロインダストリーに低賃金で雇用される地元の住民の生活は貧しく、貧困問題が紛争の間接的な原因になっている。
 また、9.11事件以降、米軍とフィリピン国軍の合同軍事演習(バリカタン)がフィリピン南部でも実施されるようになった。この軍事演習には、沖縄駐留の海兵隊が参加している。軍事演習に関しては、米軍が地位協定に反して実戦に関与している目撃情報や、米軍のオペレーションによる民間人の死傷者に関する情報も寄せられている。米政府はこの事実を否定している。しかし、南部で展開される軍事演習が、対テロ戦争のなかでムスリム反政府勢力の掃討をねらったものであることは否めない。そして、この軍事演習に参加する海兵隊の輸送ヘリや給油機への給油のために、民間空港である宮古空港や下地島空港が使用された。
 このようにフィリピン南部の紛争は、世界のどの地域の紛争とくらべても、日本とつながりが深い。ところが、2008年8月下旬、紛争の拡大により国内避難民の数が50万人になったとき、テレビや新聞で毎日報道されていたのは遠く離れたグルジアでの紛争だった。グルジアの紛争による国内避難民の数は19万人であったと伝えられた。国内避難民の数の大小が紛争の深刻さを決定するものではない。しかし、隣国フィリピンでの紛争が、このようにしか扱われないことは、かなりおかしい。

〈参考図書〉
石井正子(2008)「フィリピン南部の紛争:暗礁に乗り上げた和平交渉」『ASIANInfo』2(4):2-5.
石井正子(2009)「フィリピン南部の紛争:日本とのつながりの視点から」『インパクション』167:5-10.
広河隆一・石井正子(2009)「マグロ」『DaysJapan』6(4):28-34.
広河隆一・石井正子(2009)「バナナ」『DaysJapan』6(6):28-33.


1.国内避難モニタリングセンターは、フィリピン社会福祉開発省や国立災害調整センターなどのデータを用いて、2008年にフィリピン南部で発生した国内避難民62万人のうち、50万人が2008年8~10月に発生した紛争による避難民だと見積もっている(Internal Displacement Monitoring Center, http://www.internal-displacement.org/)。2008年9月には世界食糧計画(WFP)もミンダナオ島で50万人の国内避難民が発生していると支援アピールを出した。
2.2008年10月14日に最高裁判所はMOA-ADが違憲であるとの見解を表明した。