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国際人権ひろば No.84(2009年03月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

フィリピンでもらった元気と勇気

小山 志穂(こやま しほ)
会社員

フィリピンでみる世界がキラキラしていますように


 先入観からくる恐怖を抱いたままフィリピンに向かっていたはずなのに、帰り道には妙に「愛しい」気持ちで景色を見つめている自分がいた。ゴミ山も臭いマーケットも物乞いに付きまとわれた町もトライシクル(オートバイにサイドカーをつけた乗り物)から目に映る渋滞もどこか愛しく思える。そんな親近感をいたるところで感じさせてくれたフィリピン。
 参加させていただいたNPO主催の1週間のスタディツアー(2008年11月)は、「足を運び触れてみて、一つ一つ吸収されていく」、そんな毎日だった。ごみ投棄場のあるパヤタスを訪問し、マニラから車で3時間離れた小さな町・マグサイサイにある孤児院に滞在しながら、ストリートチルドレンとのワークショップや孤児院に併設された小学校での授業に参加するというプログラムであった。
 「思い出すと元気になれる」ような体験をたくさん味わうことができたおかげで、訪れる前に書き記していたシンプルな願い、「フィリピンでみる世界がキラキラしていますように」はその通りになった。

きっかけ


 フィリピンという国を身近に感じるようになったのは社会人1年目の夏である。大学時代は国際関係専攻・途上国支援を勉強しながらも、各国の人々のアイデンティティが知りたくて、イギリス・スペイン留学を経験、スイスやニュージーランドでのホームステイを体験したヨーロッパ大好きな私。言うまでもなく、アジアへの興味は全くなかった。そんな私を変えてくれたきっかけは、フィリピン人の母を持つ留学生サム・シューシ編注さんとの出会いだ。異国の日本で、問題意識にチャレンジしている姿は、勇敢で、笑顔から放たれるキラキラした雰囲気に、どうしてもフィリピンに触れてみたくなったのだ。
 あわせて、慣れない会社生活の中で、もう一度将来を考え直していた時、やりたいことが明確に浮かんできていた夏でもあった。途上国が抱える問題や日常を世界に、また、支援を受ける国に対し、「何」を「どう」伝えていく必要があるのか、その一歩として現地に行こうと思った。

パヤタス


 1日目の朝、パヤタス(別名:スモーキーバレー、マニラ北東にある政府認可の広大なゴミ投棄場)に向かった。そこでは、スカベンジャーと呼ばれる子どもや大人が、危険で不衛生な環境の下で再生可能な物品を探し売ることによって、生計をたてている。
 訪れて、ポジティブな面とネガイティブな面の両面に触れたことがパヤタスへの恐怖を取り払うものとなった。というのも、ゴミをあさる=汚い・危ないという考えに貧困という言葉が合わさり、正直怖かった。近づくにつれ、入ってはいけない世界に行く気がして、なんとか明るいものを探そうとしていた。
 ポジティブに感じた点は、パヤタスが一つの町として機能している点である。パヤタス=ゴミ山のイメージが強いけれども、学校やお店があり、コミュニティがある。学校近くの壁は、カラフルな色合いで世界平和を感じるメッセージと絵で彩られていて、微笑まずにはいられなかった。子どもが無邪気にじゃれあい、人と人とが協力しあい、子どものこれからを楽しみにしながら人々が生きていた。そんな生き方は私の心を魅了したけれど、一方で、その笑顔が胸をしめつけることもあった。「危険な条件にさらされている弱者ほど、無防備である」とかつて学んだことはその通りだと痛感したからである。ハエが体中を囲む中、裸足でゴミを探る姿は、それが彼らの当たり前であったとしても、不衛生で危険であり、改善していく必要性を確信した。
 また、2000年7月、死者200名以上を出したゴミ山の崩落事故を偲ぶ記念碑の前で、家族を失った人の話を聴いた。唖然というのか、私の現実とかけ離れていて問題を消化できず感情がわいてこなかった。ゴミ山の目の前の家庭を訪れ、家の中で話をさせていただいた。テレビもあり匂いもそんなにしなかった。移住した背景や子どもたちに望むことは何かなど、多くの質問をさせてもらったけれど聴けなかった事が一つあった。リッチな人についてどう思うかということだ。家族を守る笑顔はたくましかったけれど、笑顔の奥から滲み出ている複雑な思い・本音と建て前が交錯していることがくみ取れたからである。
 訪問の数時間後には、ゴミを運ぶダンプカーがやってくる街に戻り、ゴミを出す立場にある私が、あまりにも違う彼らの生活を身にしみて感じることは到底できないであろう。
 ただ、「日本人に望むことは?」という質問の答として彼らに託されたことは、現状を伝えて欲しいということだ。私が現地を訪れて感じたことも皆さんに足を運んで欲しいということ、目を向けてほしいということ。一回でもいい。パヤタスという言葉を検索して、少しでも触れてほしい。

ストリートチルドレンと接して


 孤児院から1時間ほどのオロンガポという都市では、地元NGO主催の「ストリートエデュケーション」に参加した。具体的には、チームワークや協調性など社会的なスキルを育てることを目的に、ゲームやスポーツを行っている。ストリートチルドレン向けのアクティビィティではあるが、彼らをひとまとめに定義することは難しい。市場で、買い物客に買い物のバッグを売り報酬を得るというストリートチルドレンをよくみかけたが、彼らの全員が、親がいなくて1日中働いているわけはないということを知った。なかには、家も家族もあるが、貧しいから午後だけ働くという子どもたちも多く、アクティビィティ後、迎えにきているお母さんに嬉しそうに走っていく姿を何度も目にした。しかし、本当に貧しい状況に置かれているという10%の子どもたちは、こういった機会にさえも参加することが難しいと知った。子どもの労働力が家族の生計を助ける現状の中で教育を受ける枠組みを築くことの大切さと難しさを感じた。
 他に肌で感じたことは、NGO職員や大人が子どもの命を守る責任の重さだ。誰かの命を守ること、その責任や精神的負担はとても重い。生きているということは、色々な意味でそれだけ重いのだなと感じた。また、ストリートチルドレンの子どもたちはとても軽く、抱っこしているとすぐに腕が痛くなる私のいとこの子どもとの体重の差に驚いた。けれども、彼らの強い目、声を出し前に進んでいく姿や私たちの名前を聞いてはメモをとっていく元気な姿に勇気をもらった。接して触れてみて気づける感情も多いのだと思った。
 彼らにとってこの場所はどういう場所だろうと考えても答は見つからなかったけれど、誰かとあんなに真っ直ぐに向き合える彼らだから、人と出会う楽しさを忘れないでいてほしいなと思った。きっと誰かに出会うということは、その人のこれからを支えたり、何かのきっかけになるということだから、私自身そのワクワクを大切にしたいし、出会えてよかったと感じてもらえる人になりたい!

孤児院で感じたこと


 様々な背景を持った子どもたちが共に暮らす孤児院に泊めていただいた。そこは、子どもたちのために汗をながす人たちと愛しい笑顔で見つめてくる子どもたちの相互作用からくる暖かさで溢れていた。現地職員が未来のためにと、クリーニング屋や農園を施設内に設け働く場を創り出したり、美容師を招いて喜ばせたりと多くのプロジェクトを行っていた。将来を見据えた上で必要なことを形にしていく過程に触れ、未来=可能性を広げることなのだなと感じた。
 そうしたなか、「途上国が抱える問題を解決したい」、「人が生きる上での権利を守りたい」という気持ちを出発前に抱いていたのだが、それ以上に彼らの未来のために、途上国支援に関わりたいと感じるようになった。子どもたちと星空の下で走ったこと、学校でイス取りゲームをしたこと、雨が降ると傘を持ってきてくれたこと、最後まで笑顔で見送ってくれたこと、たくさん一緒に「嬉しい」「楽しい」を味わった。それらは宝物で、その感情の先に今の私がいる。嬉しかったからまた会いにいきたいし、彼らのこれからを願う。
 また、孤児院でのお風呂なしの水浴び生活を寒い!寒い!と一緒に体験した参加者の仲間と、日本とフィリピンのNPO・NGO職員の方々との出会いと、彼らへの感謝の気持ちも大切にしたい。

最後に


 この旅の最後の言葉として、恩師からいただいた'With cooperation, nothing is impossible ! 'という言葉を紹介したい。国際問題も、会社での悩みも、「誰かと協力すれば、きっと解決への道があるのだ」ということ。問題が大きければ大きい程、自分の能力が足りなければ足りない程、途方に暮れそうになるけれども、誰かと協力して見える景色もあるのだということ。フィリピンで感じたことを糧に、私自身も次の目標に向かって進んでいきたい。

編注:サムさんは、2008年5月から8月末までヒューライツ大阪でインターンをしていました。本誌2008年9月号・No.81に「日本と性的マイノリティ」というテーマで寄稿しています。