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国際人権ひろば No.82(2008年11月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

インド独り旅で考えたこと

吉村 真実(よしむら まみ) 大阪大学外国語学部国際文化学科 2回生

きっかけ


 常日頃世界に憧れ、東アフリカのスワヒリ語を学び、インド料理店でアルバイトをする日々。"インドへ行こう"と思い立ち、春からインド関連本を読み、インド舞踊を大学で習い、少しずつ我が身をインド色に染めていった。そして2008年8月半ばに、私の大学では語学習得の困難さで有名な「地獄のヒンディー」という異名持ちのヒンディー語圏の北インドに旅立った。
 目的は特になし。旅行経路も未定。デリーで出入国する日だけ決めていた。パックツアーだとお金はかかるわ融通はきかないわで制限が多い。お金はかけない気ままな旅がしたかった。『行き先は自分の感性に任せる』『出会いを大事にする』。これらの方針がよかったのだろう。各地で思いもよらぬ良い経験がたくさんできた。
 デリー→アーグラー→ヴァーラーナスィー→ハルドワール→リシュケーシュ→ダラムサラ→デリーと回るとあっという間の4週間だった。

 

インドは下痢地獄


 「地獄のヒンディー」は私の体を蝕んだ。滞在2日目から下痢、3日目も下痢、こうして9日目まで下痢。その間は思いきった遠出や観光もできなかった。食欲は激減。風邪をひこうが失恋しようが食欲旺盛なのがウリなのに食べ物をまるで拒む自分に驚いた。食べられないため、ポカリスエットでどうにか栄養を補った。正露丸は効果なし。現地のけばけばしい蛍光ピンク色の錠剤のおかげでようやく元気を取り戻した。
 実は友人と一緒に行っていたのだが、彼女も2日目に同じように下痢になった。3日目にヒンドゥー教の聖なるガンジス河の沐浴で知られるヴァーラーナスィー行きの列車チケットを2人分取っていたが、友人は断念。私だけが先に行き友人とは後日合流ということで別れた。3日後、そろそろ友人が来た頃かとメールを見て絶句。そこには「帰国しました」の文字が。"えー!うっそー!"友人は腸炎を患ってしまっていたらしい。友人を独り残してきたことを後悔し、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。こうした過程により2人旅のはずが独り旅になってしまったのだった。

 

メールは元気の源


 そのようにメールをチェックして憂いを感じることもあったが、それ以上に喜びを感じることの方が多かった。インドの町中にはネットカフェがあちこちにあり1時間100円程で利用できた。
 旅の途中で日本や友人が恋しくなるだろうと思い友人たちには「あたたかい励ましのメールを待ってるよ」と言っておいた。そのかいあってパソコンを開く度に新しいメッセージが届いていた。
 スワヒリ語を勉強している学友が同時期にタンザニアを旅行していたため、スワヒリ語でメールが届くこともあった。インドとアフリカが遠く離れていてもこうして旅の経過を知らせ合え、お互いの旅の楽しさが感じられることが嬉しかった。そして「Safari njema!(サファリ ンジェマ!-良い旅になりますように!)」といつも互いの旅の無事を祈りあった。
 最もメールが役立ったのは体調を崩していたときだ。私は下痢のあとも屋台の食事にあたり、涼しい土地では風邪をひいたりした。そんなとき親や友人からの励ましのメールがどれだけ心の支えになったことか。重い体を起こしてメールを見に行き「帰ってきたらおいしいもの食べに行こうね」なんて書かれてあろうものなら"早く元気にならなきゃ"とむくむく元気がわき起こり、宿に帰る頃には身体が軽くなっていたのだった。

 

インドの常識


 その1...「常にポイ捨て」。タバコの吸殻もバナナの皮も道端にポイッと捨てる。しかし道端がゴミだらけになることはなくいつのまにか荷台をひいた人がゴミを片付けてくれる。
 その2...「牛糞注意」。望もうが望むまいが牛に遭遇することになる。ボーッとして歩いていたり、夜道を歩くときは糞を踏まないように注意が必要。私は踏んでしまったことも。
 その3...「NOTエアコン、BUTファン」。どこでも換気用みたいなでっかいファンで暑さをしのいでいる。日本でもファンを普及させればお財布にも環境にもやさしいのに。
 日本では非常識でもインドでは常識だということが山ほどあった。エコだとか気負わずに新聞紙を包装紙代わりに使ったり、道端で果物の量り売りをするのを見て"日本もこれでいいのに"とよく思った。普段から過剰な包装や自然に逆らった日本での暮らしにはうんざりしていた。インドで生きる方が人間らしく生きられる、そう思った。でも今の生き方に慣れてしまった以上それを捨てるのは難しい。だからせめてインドで生きる人々には(発展を望んでいるのは重々承知だが)、そのままの姿を残し続けて欲しいと願うのは先進国側のわがままなのだろうか。やはり、身勝手なわがままなのだと私は思う。

 

ダラムサラでFREE TIBETを考える


 最後に1週間滞在したダラムサラは知り合いのオススメだけあってお気に入りの場所となった。1,750mという高地のため灼熱のインドと思えぬ快適さ!夜にはプラネタリウム顔負けの星空!うっかり日本語で話しかけそうになるほど日本人にそっくりで優しい顔つきをしたチベット人!
 インドを知りたくてはるばるやって来たのに3週間もいると北インドの雰囲気に慣れ、そろそろ少し違ったものが見たいな、とうっすら思い始めていただけに、私はすっかりここが気に入ってしまった。ダラムサラというのはチベット亡命政府が置かれ、ダライ・ラマ14世が住む町である。そのためチベット人とインド人の割合は五分五分のように感じられた。
 北京オリンピック直前に「FREE TIBET」を掲げて聖火リレーを妨害する人をテレビで見たときはチベットに大した興味も抱かず"あ~なんかいろいろやってるなぁ"と他人事もいいところだった。しかしダラムサラで「FREE TIBET」と書かれたTシャツやカバンを堂々と身につけている人や北京オリンピック開催反対のポスターが貼られているのを見るにつれ、チベットに対する関心がわいてきた。
 タイミングよくダラムサラの日本料理店でとある日本人観光客がチベット情勢を簡潔にまとめたノートを見つけた。それを読むと今まで知らなかったチベット像が少しずつ浮かび上がってきた。チベット人の信仰するチベット密教は決して過激なものではなかった。ダライ・ラマ14世がどれだけチベット人の心をつかんでいるかを知った。彼は北京でオリンピックが開催されることを好ましく思っているようだった。デモは彼が誘導しているわけではなかった。
 まさかインドでチベットに思いを馳せることになろうとは思っていなかった。自分の知らないことはまだまだ世界中に散らばっており、様々な人々が苦しんだり悩んだり闘ったりしていることを知っただけでもダラムサラに来た価値はあった。

ダラムサラで知り合った日本人と早朝ヨガをしたあとのポーズ(向かって右から2人目が筆者)
ダラムサラで知り合った日本人と早朝ヨガをしたあとのポーズ(向かって右から2人目が筆者)

 

独り旅の孤独と楽しみ


 この旅を通じて自分の「生きる力」を試された気がした。生まれてこのかた独りきりの世界に投げ出されたことはなかった。家事全般はみな母親に頼り、病気のときは看病してもらえるのが普通で、誰かが自分を守ってくれていた。しかし独りで旅をするとなると自分の手で身の回りのことをこなさなければならない。
 洗濯はいつも手洗い。いつ雨が降るかわからないから外出先でも空とにらめっこ。体調が悪くて辛くても生活必需品は自分の足で出かけないと得られない。困ったときに尋ねた相手が怪しい人じゃないかと疑う必要がある。パスポートや現金の管理には細心の注意がいる。「朝起きたら窓が全開になっていて$700盗られた」という話を聞いてからは寝るときも不安になった。こんなふうに知らぬ間に神経をすり減らしていることが多かった。
 慣れない暮らしが長期にわたると、自分では"大丈夫、大丈夫"と思っていても身体は敏感に反応する。実際旅から帰ってきて3週間後に目の調子が悪くなり、口元にできものができてしまった。帰国後の休養も旅の一部。体を休めてやっと旅は完結するものなのだ。
 旅は好奇心を満たし平凡な毎日漬けになった心身をリフレッシュさせてくれ、同時に考えるべきことやなんらかの課題を新しく提供してくれるものだといえる。今回の旅はインドそのものだけでなく、チベットについてや、独りで生きることについてを考えた旅だった。
親は「これに懲りてもう独りで旅行になんか出かけるな」と言いたげだが、私としては「まだバックパッカー1年生なんだし、これを教訓に次回はもっと心身いたわった旅行にしないと」といたって前向きである。
 次の機会は春休み。さて、今度はどこに行ってやろうかしら。