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国際人権ひろば No.80(2008年07月発行号)

アジア・太平洋の窓 Part 1

転換期のネパール:共和制移行に至る道と今後の課題

山本 愛(やまもと あい) 元在ネパール日本国大使館(経済協力班)委嘱員 

NGOによる有権者教育キャンペーンが行われていた極西部のダリットの村で (2008年1月、筆者撮影)
NGOによる有権者教育キャンペーンが行われていた極西部のダリットの村で (2008年1月、筆者撮影)

 2008年5月28日、ネパールは約240年間続いた王制から連邦共和制に移行した。同日開催された制憲議会初日において「国王は今日から一般国民になる」という項目を含めた「共和制実施」が圧倒的多数で可決された。民主的な選挙を経て王制が廃止されることは世界的に見ても珍しい。
 翌日、私の元にもダリット(被差別カースト)解放運動に関わる現地の友人たちからメールが届いた。「ネパール連邦民主共和国への転換を心から歓迎したい」、「新しい議員たちは封建的な古い考えを打ち砕き、社会に真の変革をもたらすべきだ」「社会に光を取り戻すことができるかどうか、それは私たちが今後いかに行動するかにある」。いずれも、期待や決意に溢れたものだった。この制憲議会にはダリット以外にも、草の根で活動してきたマイノリティの人びとが多く参加している。
 私は2007年3月から2008年4月までネパールの首都、カトマンズに1年間滞在していた。その期間は(2007年6月と11月)2回制憲選挙が延期されたこともあり、選挙キャンペーン一色だったと言って過言ではない。制憲議会選挙実施までの1年間と選挙結果を振り返ってみたい。
 

背景:人民戦争と包括的和平協定


 1769年、カトマンズを制圧してネパールを統一したシャハ一族によって王制は開かれた。ヒンドゥー高位カーストによる支配の結果、ヒンドゥー教的規範とカースト制度が社会全体に深く根づいた。1990年の第一次民主化運動後の憲法では法の下の平等が保障されたが、ヒンドゥー教の影響を強く受けた封建的父権社会は維持され、カーストに基づく差別意識も根強く残っている。
 1990年民主化以降も身分差別、政党による腐敗政治が続いた。この状況のもと、ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)は平等社会の実現、制憲議会選挙の実施と共和制の確立を目指して1996年2月に武装闘争を開始。長年にわたって社会の周縁に置かれ続けた先住民族、ダリットや女性の心理をつかみ組織を拡大してきた。
  2005年、内閣を解散させて強権的な直接統治に乗り出したギャネンドラ国王に迫り、マオイストと政党が国王専制に反対する協力関係を構築。2006年4月の第二次民主化運動(4月革命)を経て国王は主権を国民に返還。下院が復活し、制憲議会選挙の開催が決定された。同年11月には政府とマオイストが包括的和平協定を結び、国連がマオイストの武器と兵力を監視下においた。これによって、13,000人以上の死者を出した10年間におよぶ人民戦争は正式に終結した。2007年1月には暫定議会が発足し、マオイストもこれに加わった。

 

マデシによる抗議行動の盛り上がり


 懸念していた出来事が起きた。マデシ(インド系でタライ平原部の出自集団に属する人びとの総称、人口の約3割を占める)は2007年1月に交付された暫定憲法にマデシの権利が反映されていないことなどに強い不満を抱き、抗議の声を上げ始めたのである。ネパール社会の権力中枢は大多数が山地系の住民で占められており、マデシは山地の支配者や人びとから二流市民として差別される傾向が強い。マデシは高度な自治権と、比例代表制にもとづく選挙制度と連邦共和制の導入を要求する政治運動を開始したのである。
 その後、マオイストや統一共産党などの政党から離脱したマデシを中心にMJF(マデシ人権フォーラム)やJTMM(タライ人民解放戦線)などのグループが結成され、過激な抗議行動が展開された。特に東タライを中心に、マデシによる山地系住民のへ襲撃が増えるようになった。タライの現地NGOで雇用されている山地系職員が脅迫を受ける事態も起こり、タライに勤務する山地系の職員を配置換えせざるを得ない状況が数多くのNGOで発生した。タライで生まれ育った山地系住民であっても危険にさらされる事例があり、職員の安全確保のため活動を停止した団体もあった。ある地域では、マデシ・グループから山地系である同地域の政府関係者に対し、24時間以内にカトマンズへ撤退するよう要求があるなど「排斥運動」が頻発。しかし、マデシの知人たちから聞いたところによると、マデシ・コミュニティ全体が一連のマデシの運動を支援している訳ではなく、暴力行為は許さないという立場の住民が多いのが実際であった。
  その後政党間及びマデシ・グループの協議が重ねられ、2008年2月に双方合意に達した。これを受けてようやくマデシの抗議運動は約1年ぶりに鎮静化した。
 

制憲議会選挙にかける


 この1年は政党、法曹関係者、市民団体、一般市民を巻き込んでの新憲法制定にむけた学習会や集会、有権者教育活動が連日のように開かれていた。またマデシの他、これまで政治の主流として扱われなかった女性、ダリット、先住民族などが新憲法や国家再編の過程にいかにして自分たちの権利を盛り込むか議論を重ね、積極的な選挙キャンペーンが行われるようになった。制憲議会におけるカースト・民族の人口比に応じた議席の割当等を要求して、ダリットや先住民族の活動家は活発にデモを展開。女性たちも「憲章」を作成し、新憲法制定にむけた政党への働きかけを実施していた。私はダリット女性の集会や農村での選挙キャンペーンに同行したことがあるが、「新生ネパール建設の主流に、マイノリティ女性の参加を」という意欲に溢れていた。彼女たちの行動から、ここ数年間のエンパワメントの軌跡を感じることができ、胸が熱くなった。
 4月11日選挙当日、私は2箇所の投票所を回ったが、いずれも混乱はなく粛々と投票が行われていた。知り合いの初老の女性に、会場で出会った。政治の話を滅多にしない人だが、「マオイストに入れた」と言った。601議席(小選挙区240議席、比例区335議席、閣議指名26議席)を54の政党が争った結果、マオイストが220議席と単独過半数には届かなかったものの第一党として大躍進を遂げた。その他ネパール会議派110議席、統一共産党マルキスト・レーニスト103議席。マデシも大躍進し、マデシ人権フォーラム52議席等となった(6月3日現在、閣議指名26名はまだ選出されていない)。
 女性は191名が当選し、議員比率33%を達成した。過去ネパールにおける女性運動は権利実現の基盤となる民主化運動を中心に展開してきたが、今後は女性の相続権など差別的な法律の改正を含め、女性の課題を政治化しジェンダー平等を推進する機会を手に入れた。過去、ダリット出身女性の議員は皆無であったが、今回女性議員の内、ダリットが24名当選した(ダリット全体では49名当選)。女性とダリットの立候補者割合が最も高かったのはマオイストだった。
  マオイスト圧勝の背景には、既存の政党政治への失望感からおこる新勢力への期待、労働者や貧困層へのマオイストの浸透と、巧みな選挙キャンペーンなどが考えられる。私が昨年地方に行ったとき、貧しい生活を送るダリット男性が次のように述べた。「私たちの所には、マオイストしか来ない」。10年の人民戦争期間中、村人、特に底辺の人びとにとって良くも悪くも最も近い存在がマオイストだったのだと思う。
 

共和制移行と次なる課題


 人民戦争が終結し共和制に移行したものの、ネパールが抱える構造的な問題であるカースト、ジェンダー、地域間格差を解決せずしてマイノリティにとっての真の「平和」は実現されない。差別と格差の是正を具体的に実行なければ、和平協定後にマデシ問題が噴出したように、新たな危機が訪れかねない。共和制に移行し、数多くのマイノリティが参加した議会によって、これまで政治化されなかった課題を押し上げることを期待している。
  また、多大な犠牲を払った10年間の紛争の記憶は消し去られてはならない。しかし武装勢力であったマオイストが政権につき、これまでの王室ネパール軍・マオイストによる残虐行為は追求されないまま葬られる方向へ働いている。
  一方、軍あるいはマオイストにより拘束されて行方不明になっている人は現在も800人以上おり、生存か死亡かの確認すらできていない。真の平和を築くためには「不処罰の文化」を放置せず、過去の反省の上にたち、紛争犠牲者の声に耳を傾けなくてはならないのではないだろうか。